Memoir
学生起業から、ダイヤルQ²、日広の創業とインターネット広告、そしてシンガポールへ。2008年から書き足してきた回顧録 全43話を、7つの章にまとめました。各話のタイトルから本文に進めます。
このブログを書き始めてもう18年目になりました。その間に書き足してきた回顧録「私も履歴書」1~43話 はいまなお進行中です。
ここまで書いてきたものを2025年~26年の年末年始に再構成・改稿したので、読んでいただきやすくなりました。索引としてお使いください。
振り返れば、僕が経営者としてリーダーとして最も脂がのっていた時期は31歳~38歳(1999年~2006年)ですが、この時期のことはまだ文字に出来ていません。すなわち第5章までは書ききれたと思う一方で、そのあとはまだ概略だけになっており、のちに改稿するつもりでいます。要約はAIにやってもらいました。
加藤順彦 (2026年 2月17日)
【第一章】第1-4話
1986年、18-19歳 | 関西学院大学合格を機に、18年間貯めたお年玉全額25万円を運転免許合宿に投じた高校生。大学入学後、「モラトリアム」という言葉に衝撃を受け、偶然参加したパーティで真田哲弥という“マハラジャのマハラジャ”と出会う。ミナミの夜の世界で輝く先輩に男惚れし、小間使いとして付き従うようになる。「お金は遣う為にある」──この信念が、その後の人生を貫く処世の理となった。
【第二章】第5-11話
1986年11月-1987年3月、19歳 | 真田・西山両氏と共に、運転免許合宿斡旋事業「マイライセンス」を西中島南方の11平米ワンルームで開始。前年の取引先倒産で3000万円の未払いを抱えながらの再起。「2月になったら、わーっと来る」という西山氏の言葉を信じ、大学合格発表日に「合格おめでとうございます!」と声をかけながらパンフレットを配布する独創的な営業手法で大成功。通帳残高は4000万円を超え、19歳の僕は「通帳の奏でる音楽」に狂おしいほどの高揚を感じた。
【第三章】第12-25話
1987年6月-1990年、19-22歳 | マイライセンスが株式会社リョーマとして法人化。資本金100万円、代表取締役社長・真田哲弥、専務・西山裕之、そして19歳の僕。「リョーマは一日にして成らず」の名刺を手に、運転免許合宿事業に加え、大学生向けプロモーション事業を展開。キャンパス内でのポスター貼り、サンプリング、名簿集めなど、学生であることを最大限活かした営業で急成長。ViePlanマガジン創刊、S.Y.N発足、そしてダイヤルQ²との運命的な出会いへ。バブル絶頂期、関西の「学生企業」として新聞・テレビにも取り上げられた。
【第四章】第26-29話
1990年10月-1992年、22-24歳 | 真田・西山らが立ち上げたダイヤルキュー・ネットワークに合流し、東京・下目黒へ移住。世界初FAX Q²ネットセンターのローンチなど、革新的サービスを次々と展開。しかし社会的バッシングの高まりとNTTの規制強化により、入社わずか20日で会社は破綻。「宴のおわり」を迎え、新卒社員として入社した仲間たちに何も責任を取れない無力感に打ちひしがれる。徳間書店グループ・徳間インテリジェンスネットワークへ流転することに。
【第五章】第30-37話
1992年8月-1998年、25-30歳 | 1992年8月25日、成り行きで広告会社・日広を創業。ツーショットダイヤルの雑誌広告で単月黒字を達成し、94年度には売上10億円を突破。しかし既得権益の壁に阻まれ、インターネットという新天地に活路を見出す。Yahoo! JAPAN、MSNなどの黎明期から関わり、「グレーゾーンという聖域」を巧みに攻略。インターネット広告代理店として名乗りを挙げる。
【第六章】第38-39話
1999年-2006年、31-38歳 | ビットバレーブームの渦中、インターキューがまぐまぐと組んでまぐクリックを設立。日広子会社のメディアレップ・ドットコムを通じた独創的戦略で、ナスダック・ジャパン史上最短上場を実現。iモード登場でモバイル広告市場にいち早く参入し、CP公式広告という新市場を発見。97年から03年まで30社超のスタートアップに個人で総額3億円弱を投資。日広はグループとして200名規模まで膨らみインターネット広告専業代理店として成長していくことに。インターキュー、まぐクリックなど複数のIPOに伴走し、エンジェル事業家としても成功する。「人間、到るところ青山あり」──リスクを恐れず挑戦し続ける姿勢が結実した時期。
【第七章】第40-43話
2007年-2008年、39-41歳 | 2007年7月、自力再生を断念しGMOグループの傘下入りを決断。日広を手離し、楢林悦朗氏の誘いでシンガポールへの単身移住を決意する。40歳にして人生最大の転機。GMOインターネットグループの一員として日広の再生に道筋をつけた後、新天地シンガポールで日本企業のASEAN進出支援コンサル会社を立ち上げる。15年間育ててきた会社を手放す痛みと、新たな挑戦への期待が交錯する。
各章の要約は、元の目次記事(回顧録「私も履歴書」1~43 |章立て/あらすじ)から引用しています。