私も履歴書  33|インターネット黎明期/普及期の尻馬に乗る。

2026年1月11日

 

大きな転機が訪れました。

マイクロソフトが年末に発売するというウィンドウズ95。そしてアメリカからやってくる新しい情報通信のオープンなネットワークであるインターネットが商業用にも利用されはじめ、世界中と自由に通信ができるような時代が来る!と、扱い始めたパソコン雑誌に相次いで掲載されはじめました。

なんだこれ。

ピンとくるのに、そんなに時間はかかりませんでした。

なんという インターネット!

この事実はパソコンオンチ、文系の私にも、雷に打たれたような衝撃でした。

一目見て、一昼夜考えて、これから、このインターネットの時代がくる。まちがいなく新しいビジネスの風が吹く。直感でそう感じました。

僕は、ダイヤルキュー・ネットワークが破綻し、徳間インテリジェンスネットワークでの事業も閉じられ、半ば成り行きで始めてしまった広告代理店を、だらだらと続けていました。

しかし、インターネットという新しい情報通信のオープンなネットワークを知った時、青雲の志を持って東京に来た頃のことが蘇りました。

それまでだらだらと続けていた会社を、初めて大きくしたい、と思ったのです。

心機一転、本社を表参道に移し、有限会社を株式会社にして、仕切り直して再スタートを切ったのは、直後の1995年7月のことです。

インターネットというシロモノに対し、日々じわじわと「……これはダイヤルQ²の再来だ。いや、これは新しい産業だ」と確信を持つようになってきました。

僕たちがダイヤルキュー・ネットワークで為さんとした次世代の情報提供サービス=電話回線を使って情報を販売するビジネスと、インターネットはその仕組みに似ていると思いました。接続事業者であるインターネットサービスプロバイダー(ISP)に人気が出るのではないか、と感じました。

気がつけば…既得権益の壁に阻まれていた雑誌広告業界から、まったく新しいインターネットという未開拓の世界へ。

僕は賭けに出る決意を固めました。

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もちろん僕以外にも、そんなふうに考える人が数多くいました。ツーショットダイヤル業界の人たちも、その他のBBSなどの通信系サービスを行っていた事業者たちも次々とISP業務を始めていきました。

そんな折に、旧知の熊谷正寿さんと、徳間インテリジェンスネットワークまで同僚だったダイヤルキュー・ネットワークの元社長玉置真理さんが組み、ダイヤルQ²を使ってインターネットに接続する「interQ」というISPを立ち上げました。サービス誕生には、僕自身も深く関わりました。誰でも1分でインターネットにつながる社会を実現するという理想に痺れたのです。

1995年11月末、Windows 95の発売に合わせて、interQの初広告を『FLASH』と『スコラ』という雑誌に掲載しました。

これを機に、私はISP広告に大きく舵を切りました。それまで創業以来取り組んできた男性向けグラビア誌・成人向けコミック・レディースコミックなどのツーショットダイヤル販促の雑誌広告の商売の新規枠の営業を止めました。『インターネットをはじめる』ための雑誌の広告取り扱いに集中するためです。

「もう成年誌には力をいれない。これからはパソコン雑誌、インターネット入門誌をやっていくんだ!」と社員に説明していました。

世の中に、まさにインターネットをはじめよう!という狂想曲が鳴り響きました。IIJ、Asahiネット、インターキュー、ベッコアメ、リムネット、コアラ、3Web、WAKWAKインターネット、ZZZ……続々とISPが林立していました。

その潮流のパイオニアとなったのはアスキー脱藩組による新設会社インプレス発行の『INTERNET Magazine』でした。これに続けと、前述のアスキー(インターネット・アスキー他)、日本ソフトバンク(『YAHOO!インターネットガイド』他)、毎日コミュニケーションズ(インターネットファン他)、日経BP社(日経ネットナビ他)、宝島社(DOS/V USER他)らは一斉にインターネットをスタートするための雑誌を創刊しました。

加えて、大手出版社やリクルート(あちゃら)も、更には同朋舎のWIREDや、ディジットのHOME PC日本版といったベンチャー出版社のネット系雑誌の広告も売れに売れました。まさに大創刊ラッシュです。

それらの雑誌が想定している広告主は、既存のナショナルクライアントではありません。ISPのような、インターネット以前には存在していなかった新しい業種、サービスでした。

そう、僕の読みは大当たりしたのです。

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95~96年当初のISPには、黎明期にはそれこそ上述の草の根ISPと(失礼ながら)ぽっと出のベンチャーしかプレイヤーがいませんでした。

ところが96年半ばから97年98年には、WINDOWS95搭載のパソコンやiMac、ネット接続用のルーターやモデムが売れまくり、実際に世の中がインターネット大ブームを迎えたあたりで、パソコン本体を製造していた情報家電メーカー自身が、購入時のインセンティブとして、或いはストックコミッション型のビジネスとして、ISPに注目するや、自ら事業者として本格的に運営に注力するようになったのです。ちなみに、こちらは当時、日広で制作していたinterQ広告です。

 

...So-net(ソニー)、SUNNET(三洋電機)、DTI(三菱電機)、Panasonic hi-ho(松下電器)。クローズドなネットワークとしてのパソコン通信から、インターネット対応に昇華したBIGLOBE(←PC VAN)、nifty(←nifty serve)も本格的にISP事業へ移行していきました。

加えて、当初はインターネット自体に懐疑的だった第一種通信事業者(キャリア)も、インターネットへの潮流が確実であることを観念したのか、手のひらを返すようにISP事業に進出してきました。OCN(NTT東日本/西日本)、DION(第二電電)、ODN(日本テレコム)、NEWEB(KDD)ぷらら(NTTコミュニケーションズ)、、、

まさにISP産業はパンデミックさながらの百花繚乱状態となり、ネットスターター向け情報雑誌業界も入れ食い、広告入り放題、左団扇の濡れ手粟となったのでした。

は毎日が楽しくて仕方ありませんでした。雑誌広告業界の既得権益に阻まれて絶望的だった状況から一転、まったく新しい世界で自由に羽ばたけるようになったのです。インターネットという新天地では、日広のような新興ベンチャーでも、大手と対等に戦えました。いや、むしろ新しい業界を理解し、柔軟に対応できる僕らの方が有利でした。日広の売上は急激に伸び、98年には16億円に達していました。

 

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しかし98年から99年、はじまりの段階は終わりを迎えました。

やはり本気になった大手通信キャリアの営業力は凄かったのです。インターネット接続の一般化に伴って、、日本中の家電量販店が店頭で通信キャリア系ISPのプロモーションのためにスペースを割いていました。雑誌広告を出稿し新規の集客を行うという、それまで販促のプロセスは消えていきました。そして極めつけは格安ISPとして大々的に手を拡げたソフトバンクによるYahoo!BBの市場席巻でした。旗色がはっきりし、合従連衡と廃業が相次ぎました。あれだけ烈しかった競争は終わりを告げました。

日広の雑誌広告の売上は翌99年には9億ちょいの年商にまで落ち込みました。あれだけあったISPの広告もツーショットダイヤルの広告も、取り扱いはもう殆どなくなってしまいました。

しかし、僕はまったく不安ではありませんでした。いやむしろ勇気凛々、といった心境だったのです。

なぜなら、僕はこの一連の経験を通じて、重要な教訓を得ていたからです。成長する産業を見極め、そこに早期参入すること。
既得権益のない新しい市場でこそ、ベンチャーは輝けること。

大手が参入してくるまでのタイムラグを活かすこと。ISP業界の盛衰は僕に、インターネットがもたらす真の可能性を教えてくれました。これはまだ始まりに過ぎない。インターネットという大きな波は、これから様々な業界を変革していく。その波に乗り続けることができれば、日広はまだまだ成長できる。

 

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