私も履歴書 25 |リョーマしごと大車輪。ダイヤルQ²との邂逅。

2022年3月21日

 

想えば1988年から90年春にかけての日々は、僕の人生の中でもっともネアカというか陽キャというか…ワーカホリック&パーリーピーポー的生活の日々でした。史上空前のバブル全盛期ということもあったし、若く体力があったんでしょう、月1は東京に出ていってたし、週末は夏は海、冬はスキーと…よくあれだけ動いたものだ、と。

 

リョーマ、そして東京に組成されたS.Y.Nのメンバーは前後しますが、だいたいこの時期に在籍したメンツがほぼ9割なので、2017年の30周年の折にお招きした調べるおさんが制作された図を貼っておきます。(このリョーマの面々については別途紹介していますので、こちらをご参照ください。

あの頃の僕らは、いや(正しくは)僕は大真面目で「メンバー全員がひとりひとり将来社長をめざす”梁山泊”のような組織」を目指していました。そうやって一人一人を熱くなって口説き、メンバーにしていきました。実際、僕のやってることは自己啓発セミナー/新興宗教のそれ集めとほぼ同じだったと思います。

リョーマのマーケティング事業部はViePLANマガジン発行を境に学生がやってる会社ごっこ・学生企業から、少なくとも関西の販促界隈では 『しごと』が割り振ってもらえるようになりました。 専ら『大学生・短大生向けのセールス・プロモーション』の下請けの受託が多く、続々と入ってくるメンバー(大学生社員)はそれらの作業が割り振られていってました。

主な商流は大阪発注だと大広、ヤラカス館、学生援護会、ファースト、リクルートフロムエー、アド電通などが多かったですかね。東京でまとめて発注されたSP仕事の関西消化案件も多く、事務所のなかや802号室或いは僕の実家の駐車場には東京から山と届いたサンプリングの入った段ボール箱がびっしり縦積みされることもしばしばでした。サンプリングで一番ひきあいが多かったのは、実は『メンソールタバコ』『ビール缶』。普通に堂々と大学の校門で配るのですけど、いま考えると随分おおらかな時代だったとも思います。

それらSP作業の下請け営業。実務進行はメンバーに委ね、僕個人はけっこう変わった与件ばかりを属人的に担当させてもらっていました。
ViePLANマガジンのグラビアに出たタイミングに前後し、NHK総合『土曜倶楽部』の大阪体験隊(月イチ放送)のレギュラーを2年間(1988、89)やったことも個人として露出増になり、リョーマ宛に御指名で声が掛かるようになっていたのです。

・三井物産 関西本社 マーケットクリエーション室
・公文教育研究会 事業開発部 (のちに新会社としてゼロ・コーポレーション
・情報センター J-One 大学生向け通年プロモーション
・吉本興業 なんばグランド花月ディスコ Desse Jenny
・船井総合研究所 三世塾プロジェクト
・井筒和幸監督作品 映画『東方見聞録』資金調達活動
・JSB 学生下宿年鑑 ×MY LICENSE タイアップ集客プラン

などが僕がリョーマにて主担当した案件でしたが、胃もたれトピックも数多く、どれも思い出深いです。
船井総研には…僕が提案した3世塾は開講されず徒労に終わったものの、その縁がキッカケでのちに同社社長になった中谷貴之さんが繋がっており、意味あったなぁ、としみじみ感じます。
三井物産では水野勝弘室長なるザ商社マンに見初められ、商社の仕事の作り方を1から教わり、果てに同社から…というか水野さんの推しで『内定』まで頂きました。笑

リョーマは1989年4月、ミヤマ=レオパレス21をメインスポンサーに迎えたサークルカタログ ViePLANマガジン改め OMO LOUGUEを関西版、そして東京版として東阪で発行することができました。

 

いっぽうで東京では真田さんがまた全く別の新しいことに取り組みはじめていました。S.Y.Nの中核メンバーの玉置真理さんと共に、その構想を大阪のリョーマまで説明に来たのは6月だったと思います。

 

民営化されたばかりの日本電信電話(NTT)が情報料課金回収代行サービス【ダイヤルQ²】を新規事業として取り組むので、それに情報提供者として参加するのだといいます。通話料とは別に、企業が提供する付加価値情報の課金を代行徴収する仕組みです。ビジネスはもともとアメリカで先行されたもので、かの国ではDial ITというそうです。

真田さんは「これこそが高度情報化社会・マルチメディアそのもの。新聞・テレビに次ぐ第3のメディアになる」と、リョーマのメンバーの前で雄々しく説明します。
たまげたのは、NTTがテスト用に募ったダイヤルQ²サービス用100回線の募集(個人法人問わず一名義2回線上限)で過半数の52回線を押さえることが出来た、という成果を聞いたことです。

「あぁ~僕ら総出で大阪や神戸のNTT支店に申込を出しに行ったアレは結局半分以上とれたんや。まじか… これはかなり革命なんちゃうんか。 つか、さなさん イイ感じでイカレてるやん!」 僕は昂奮で全身の血が逆流しました。

 

リョーマで経理・総務を担当していた山下伸一郎さんはこの演説を機に上京。そのままに真田さんと玉置さんの起業準備は猛烈な勢いで進行していきました。開業準備してた代々木の貸しオフィスから五反田の新池田山マンションへ移る8月にはまだ法人設立前にもかかわらず、次々に加わっていくメンバーは10人近くなっていました。

 

全国で動いてもらった大学生たちの名義になっている52回線の権利を譲渡する新会社ダイヤル・キュー・ネットワークは、9月28日に設立されることが決まりました。そしてこの日に ダイヤルQ²総合ポータル のQネットセンター(ポータル番号に電話→着信後に番組番号プッシュ→番組が再生)を開業するのです。この日が…代表取締役社長に就くことになった玉置真理さんの20歳の誕生日でした。

西山さんは10月1日付でリョーマを運転免許合宿の斡旋部門を株式会社マイライセンスとして分社し、事業部長だった佐々木康さんに経営を委ねました。

 

Qネットセンター開局直後から当初の目論見があたり”現役東大生の美人社長”でマスコミに大きく取り上げられただけでなく、SPA!「家つき娘を探せ」、雑誌スコラのグラビア、プロレス団体UWFの結果速報などのタイアップがコール増を押し上げました。更にいきなりの収益を持ち上げたのは、もう一つのサービス:アメリカで大流行していた混戦電話「テレホンパーティ」でした。8名まで同時に通話できるものでしたが、開局後たちまち通話料を払って、空席待ちとなる状況となりました。いきなりのゴールドラッシュです。

当初はリョーマの経営があったので距離を置いてる様子だった西山さんも、90年4月のOMO LOUGUEの制作の頃にはほぼQネットにフル回転となり、実務にほぼ携われなくなりましたが、現場とブロックタックの活躍で無事こなし、8月には大阪でもQネットセンターを開業。この作業はもちろんリョーマのメンバーが担当しました。

続いて名古屋、福岡もオープン…と破竹の快進撃。第三のサービス”伝言ボーイ”事業の開始。9月にはダイヤル・キュー・ネットワークは総員30人を超えました。

そしてリョーマとしてQネットから業務委託をまるっと請けた格好にして、内田康則さんと僕が東京に常駐することになったのです。僕の配属は「商品企画室」となりました。新規事業の立ち上げがミッションです。