私も履歴書 40 |手仕舞いへ

2023年7月20日

 

自力での再生を断念し他社資本の傘下入りを選ぶと決断したのは、2007年7月でした。

日広は毎月10日が給与支払い日だったですが、それを支払いきって、9月の入金見込みを見て …どうもならない、と観念したのです。大きく借入をしないと、10月は乗り切れたとしても、11月末も12月の冬季賞与も用意できない。

創業来初めて夏の賞与が履行できませんでした。 1カ月の早期退職金を約して希望退職を募り、40人近い…有能なメンバーもそこで離れることになりました。既にオフィスを借りていた青山オーバルビルは半フロア(4階)を解約していました。間接費は大きく見直して、削れるだけ削りました。

それでも…6月の月次P/Lが回復することはなく、むしろ悪化の見込みだったのが決定打でした。

僕自身は、傘下入りの相談を複数社と進めていくいっぽうで、会社を離れる腹も固めました。僕の役員報酬は4月から懲罰的に70%を減額していましたが、社長の肩書と代表権を…2000年以降ずっと営業面を支えてくれていた橋口誠さんに譲りました。

そして己の進退の方向を買収を検討してもらう先にしっかり示したうえで、のちの体制についても橋口さん主導で協議してもらったのです。

 

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前年2006年1月のライブドアショックと、時期的に前後して、施行が決まった消費者金融業の過払い返戻の決定(→そして消費者金融業界の瓦解) の影響が大きく出だしたのは、同06年の4月以降で… まさに坂道を転げ落ちるように売上が落ちていきました。

実は日広は3月に、それまでの数年の指標だった月次売上10億円に初到達していたのです。

が、これが2桁売上の最初で最後の月となり…なんと半年後の06年10月には6億円を切るという体たらくとなりました。建て直し集中のため子会社メディアレップジェイピーをインデックスグループに託す決断を実行しました。が如何せん広告業の粗利益率は15~20%。短期で4割も嵩が落ちてしまうと、キャッシュフローが廻らない。それまでの数年の蓄えをみるみる数カ月で食い潰していく始末でした。

1992年のDay1からそういったマイナスが数カ月は続いたことなかったので、追い詰められやり場もないというか、ネガティブな感情のどう乗り越えればよいか解らなくなってました。

個室を廃したことで、金策のためのコミュニケーションを社内ですることが出来なくなっていき、自宅からすることが増えてました。

・月末にお金が足りないこと。

・引責として、僕自身も含めて役員の報酬をカットしていること。

・蓄えを切り崩して、やりくりしていること。
を、ごく近い周りの者にも伝えざるを得ない日々が2006年から07年にかけて続いていました。

なので、2007年7月に日広の資本を他社に譲ること、己は経営から退くことを決めて伝え始めた折はむしろ好感触というか、周りを安堵させたところもけっこうありました。

 

 

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