私も履歴書 8 |『合格おめでとうございます!』と声をかけながら、配る。
年が明けて、1987年になりました。
その頃にはいよいよマイライセンスとしての4月までの主要な自動車学校の斡旋先と枠が、固まりました。主に福井県、鳥取県、の自動車学校3校がメインです。広告も12月末売りからLマガジン(タテ1/3枠 9万円)に加えて、プレイガイドジャーナル(下1/5枠 8万円)も増やしました。
2月3月に向けて、資料請求を戴いたときに送付するパンフレットも印刷しました。カラーです。封筒もイメージ写真の付いた派手でカッコイイのになりました。
(痛かったのは、封筒をいい紙質にしすぎて、それまで郵便代が120円だったのが190円になってしまったことです。これ大失敗。以来…封筒は薄い紙にするのがクセになりました)
僕らが販売する運転免許合宿の最繁忙期は、私立大学の合格発表のある2月10日あたりから、大学の入学式のある4月2週目までです。この期間の料金が一番高くなります。修了検定までの期間は平均で18日~21日です。もちろん、途中で仮免許試験があるのですが、これに落ちると更に滞在が延びます。
繁忙期は近くの提携ホテル宿泊(4人までの大部屋)し、三食つけて、教習費(学科教習料・技能教習料・仮免交付申請料・証紙代・教材費…等)と修了検定費(卒業試験)とあわせて、なんやかんや総額で28万くらいです。
閑散期は総額で18.5万円だったので、値幅は10万近くあることになりますが、斡旋所としてのマイライセンスの利幅は2万円~2万5千円でほとんど変わりませんでした。
自動車学校との交渉窓口をやっている西山さん曰く『繁忙期に預かっている入学枠は、絶対に埋まる。埋める』ということでした。
だから、1月の間は資料請求やお問い合わせの電話にて、料金の安さや(生徒が少ないので)指導の丁寧さをアピールして、できるだけオフピークの時期に入学してもらうことが、僕の仕事でした。
資料請求に応じてパンフレットを発送し…2,3日経ってから、戴いたお電話で注文を受け付けたり、こちらからお客様にお電話して様子を窺ったり、アピールしたり、、、という具合です。できるだけ電話で全て済ませます。
というのも、マイライセンスの実際の事務所は、11平米しかないウナギの寝床のようなほそーいライオンズマンション新大阪第三の一室、しかもメンバーは19歳の僕を含めて、見るからに若い大学生ばっかだったので、、。
申し込み書や手付け金をオフィスに持参したい!とかとなると…ドキドキするのでした。なんせお越しいただいちゃうと、不安になったのでしょう、『解約したい』ってこともあったりで。
(当時のオフィス。東急ハンズの組み立て板を組んでダンボールの引き出しに黒つき板のせて机にしていました。)
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繁忙期の自動車学校メイン3校の入学枠は200人近く確保できました。
が、、1月に入っても、Lマガに加えプガジャ広告も増えたにもかかわらず、資料請求は一日5,6件、お申し込みも1,2人取れればいいほうでした。
事務所で、いつものように3人で壁に向かっている合間に、思い切って訊いてみたのです。
「あの、 さなさん、西山さん」
「なんや」
「タウン誌の広告だけで、自動車学校からお預かりした枠って埋まりますかね。」
「無理やな。」
「・・・・」
「でも加藤、大丈夫や。もうすぐ、これを印刷に回す。」
西山さんは、そう言うと、鉛筆で下書きしたA3二つ折りの、マイライセンスの販促チラシの原稿案を見せてくれました。
「これを、カラーで3万枚印刷する。配るんや。自宅に持って帰りたくなるくらいしっかりとした厚紙にちゃんとデザインをして制作する。」
「3万枚!」
「でも、どこで、どうやって配るんですか」
「大学の合格発表の日に、大学の正門前で配る。」
「受験生は、校内での合格発表の掲示板を見に来る。結果を見て、帰宅しようと校門を出てくる受験生に、このチラシを配るんや。」
「しかも、ニコニコしてる、、、、合格した人にだけ『合格おめでとうございます!』と声をかけながら、配る」
「なるほど!!」
「一発目の合格発表は、関西大学や。2月10日の10時に行くで。俺たちに加えて、バイトを5名ほど用意しよう」
すわ猛烈にアドレナリンがあがりました。
一年前の関西学院大商学部の合格発表時の、あのときの感情が甦ってきたのです。