私も履歴書 31|日広、雑誌広告で大躍進。
ノリと勢いでぽんとこしらえた日広は、当初から単月収支が黒字でした。
どーんと広告予算の有るツーショットの大手事業者が広告主として(しかも競合の広告代理店さんが連絡が取れない……)しっかりとついていたので、出だしを滑り出すことが出来ました。とんとん拍子で仕事も増えるようになったんです。
彼らからの要望は明確でした。成年誌やレディースコミック誌におけるコール促進など、「反響が数えられる」広告枠を仕入れること。ひたすら諸先輩の「まわし」広告代理店や、雑誌の版元(出版社)を回る、電話する、価格交渉する毎日でした。
最初の1カ月にして、30ページくらい売れたんです。
広告の掲載料は1ページ10万円、15万円といった価格帯で、カラーでも40万円ほどでした。
翌々年の1994年のピーク時には販売は月400~500ページは取り扱っていました。
平均すると毎日10ページ超は広告を入稿していた計算。社員は僕を入れて総勢3名。1993年夏に借りた南青山の事務所は、骨董通りの突き当りの雑居ビルの4階。広告枠を仕入れさえすれば、飛ぶように売れていく日々でした。
中でも広告主に人気があって、かつページあたりの料金単価が高かったのは、コンビニで売っているグラビア誌や競馬・パチンコの情報誌でした。
日広は、ツーショット広告の領域は顧客をがっちりグリップしていたので、いい商売でした。とにかく薄利多売で忙しかったなぁ。次第に日々、社員/バイト5、6人で紙焼き/版下/MOの入稿をぶんまわすようになりました。

実際の広告掲載誌も、版元や廻し代理店から取扱1ページにつき最低2冊は届くので1000冊/月以上がバンバン佐川ヤマトで届くわけです。
お得意先に広告掲載誌をどんどん発送していかないと、気を抜くと事務所が雑誌で埋め尽くされる勢いでした。客観的に観れば、この状態は駆け出しの商売としては大成功の部類といえる、でしょう。
のちに振り返れば、日本の雑誌広告市場のピークは翌1996年でした。これには、ある種の必然(雑誌とネット、市場のトレードオフ)もあるかとは思います。おそらく雑誌の販売市場そのもののピークもその年でしょう。
(96年の雑誌の総発行部数は51億2千万冊/約4000誌発行されていた、というデータもありました。)
最初の3年弱は、そんなわけでツーショットダイヤルの雑誌広告だけで食い扶地を稼いでいました。気がつけば、94年度は売上も10億を遥かに越えていました。

自分がそんなにたいしたことなくても、成長産業の追い風をつかむと伸びるんだ、すごいなぁと思いました。
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