私も履歴書  29|徳間書店グループへの流転。

2024年5月1日

 

 

ゴールデンウィークが明けて、それからも大変でした。
破綻した段階でダイヤル・キュー・ネットワークには60人ほど社員がいました。入金サイクルが長くなってしまったとはいえ売上そのものはあるし、CM事業部の日々の運営もありました。
そのためには会社ごとどこかの会社に買ってもらうしかありません
西山さん杉山さんが中心になって、再建策を練り上げ、金策、増資、株式譲渡に応じてくれそうな当時有名なベンチャー企業さんを回っていました。
マルチメディアの世界に名を馳せていたダイヤル・キュー・ネットワークという名に魅かれて興味を示す会社は少なくはありませんでしたが、経営実態を伝えたうえで、救済をお願いするのは厳しかったそうです。

そんななか、徳間書店グループ(徳間事業団)が関心をもってくれました。それまでに一度、情報提供会社として取引していた子会社の大映を通して、出資を申し入れてきたこともあったそうでした。

そして西山さんと杉山さんが徳間書店グループ側と合意に至った再建計画は社員50人を退社させ、残った十数名と会社自体を引き受けてもらうというものでした。

5月末、徳間書店の社長 徳間康快さんとの面談を経て「債権の一部については面倒をみるが、会社自体は買いとらない。」という返答が来ました。
僕らのやってきたこと、要するに情報を通信を通じて有料で売るという仕組みに関心を持って頂いたんでしょう。事業は、首の皮一枚が残ったのです。

6月、僕らは営業継続するサービスのリース(約5億円のリース残債)を徳間書店グループで付け替えていただくというご了解を頂き、営業譲渡という形で、3人の役員・11人の社員が、受け皿法人として新設された徳間インテリジェンスネットワークに、その事業を承継する為に移りました。

結局、CM事業部のメンバーで、新法人に移ったのは、僕と内田くんだけでした。僕は、他の部下6人には転職先すら紹介することもできませんでした。自分のあまりの無力さを思い知りました。

大学卒業して就職して、そしていきなり転職、数奇なものです。
しかも僕は事業運営のための人身御供。もうドナドナ状態です。でも、とにかく事業を続けようと思ってました。
会社は潰れたけど、僕が運営していた事業にまだニーズがあったことは知っていました。なんかいろんな意味で悔しかったです。

突然潰れてしまいましたが、破綻以降も毎日全国から、ダイヤルQ²の電話番号にユーザーさんからかかってきてました。
その状況は、会社が潰れる前と別に変わらない、ダイヤル・キュー・ネットワークが潰れたことを、電話してるユーザーの方は知らないんです。

営業譲渡以降も、ダイヤルQ²自体が社会問題になっていた状況は続いていました。そんななか僕は受け皿法人においては当初の想いには反してCM偉業部ではなく、情報サービス部門の配属となりました。

12月には徳間の新規事業開発のメンバーに混ぜてもらい、業務提携先のIGSさんと共にニューヨークに出張で連れてってもらったりもしました。このNewsweekの嵌め込み写真はその出張時のお土産です。(24歳!)

当時は徳間グループとしてはスタジオジブリのアニメーション制作で「となりのトトロ」や「紅の豚」を創っていたり、徳間書店自体も児童書も数多く作っていました。

そんな状況下、ダイヤルQ²という世間で問題になってる事業を子会社でやっていいのか、というのが、おいおいに議論として社内であがってきました。
そして92年の春、僕が連れていった連れ子の事業(伝言ボーイ、テレホンパーティ)は終了することになってしまいました。折しもコールも落ち込んでいました。ある意味しかたなかったのでしょう。

僕はアイデンティティーを失いました。
なんのために徳間に転籍したのか、、、そういえば俺は経営者を志していたんだ、ベンチャーを始めるために東京に出てきたんだ、ということを思い返したりしました。

もう大阪に戻ることも、今更フツーの就職もできません。両親には440万出してもらってダイヤル・キュー・ネットワークに出資してもらっていたので、その会社が潰れたことも言えずに黙っていました。S.Y.Nの頃の仲間である石川清雪さんがはじめた雑誌広告会社A.I.Qの成り行きの手伝いも楽しくなっていました。

 

…諸々があいまいなままに92年8月、僕は会社を辞めたのです。

 

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