私も履歴書 29|受け皿となった徳間グループへの転籍。
1991年4月末、ダイヤルキュー・ネットワークは事実上の経営破綻を迎えました。
ゴールデンウィークが明けても、事態は混沌としていました。破綻した段階で社員は60人ほど。入金サイクルが長くなってしまったとはいえ売上そのものはあるし、僕が運営していたCM事業部(伝言サービス運営部署)の日々の業務も続いていました。
しかし、会社を継続するには、会社ごとどこかに買ってもらうしかありません。
西山さん、杉山さんが中心になって、再建策を練り上げ、金策、増資、株式譲渡に応じてくれそうな当時有名なベンチャー企業さんを回っていました。マルチメディアの世界に名を馳せていた「ダイヤルキュー・ネットワーク」という名に魅かれて興味を示す会社は少なくはありませんでしたが、経営実態を伝えたうえで、救済をお願いするのは厳しかったそうです。
そんななか、徳間書店グループが関心をもってくれました。
それまでに一度、情報提供会社として取引していた子会社の大映を通して、出資を申し入れてきたこともあったそうでした。西山さんと杉山さんが中心となり再建計画をつくりました。そして社員50人を退社させ、残った10人と会社自体を引き受けてもらうという計画ができたのです。
5月末、徳間グループ(徳間事業団)の社長・徳間康快さんとの面談を経て、「債権については面倒をみるが、会社自体は買いとらない」という返答が来ました。私たちのやってきたこと——情報を通信を通じて有料で売るという仕組みに関心を持っていただいたんでしょう。事業は、首の皮一枚が残ったのです。
1991年6月、営業譲渡というかたちで、僕の転籍が決まりました。営業継続するサービスのリース(約5億円のリース残債)を徳間グループで付け替えていただくというご了解を頂き、営業譲渡という形で、2人の役員・10人の社員が、受け皿法人として新設された株式会社徳間インテリジェンスネットワークに、その事業を承継する為に移りました。
結局、CM事業部のメンバーで、新法人に移ったのは、僕と内田くんだけでした。他の部下6人には転職先すら紹介することもできませんでした。このとき感じた無力感は今も忘れられません。
大学卒業して就職して、そしていきなり転職、数奇なものです。
しかも僕は事業運営のための人身御供。もうドナドナ状態ですね。でも、とにかく事業を続けようと思ってました。会社は潰れたけど、運営していた事業にまだニーズがあったことは知っていました。なんかいろんな意味で悔しかったです。
突然潰れてしまいましたが、破綻以降も毎日全国から、ダイヤルQ²の電話番号にユーザーさんからかかってきてました。その状況は、会社が潰れる前と別に変わらない。ダイヤルキューネットワークが潰れたことを、電話してきたユーザーの方は知らないんです。

そんななか僕は受け皿法人においては当初の想いに反してCM事業部ではなく、営業企画部の配属となりました。
徳間グループのコンテンツをダイヤルQ²回線にのせるサービスの事業化が当座の役目でした。
ダイヤルQ²の他にも、東京FMとの「PCM音声放送」と呼ばれるインタラクティブラジオのサービス開発案件も担当しました。通信衛星やISDNなど「高度情報社会」の新しいインフラを使ってどんなコンテンツを作るかを企画していました。
12月には徳間の新規事業開発のメンバーに混ぜてもらい、業務提携先のIGSさんと共にニューヨークに出張で連れてってもらったりもしました。このNewsweekの嵌め込み写真はその出張時のお土産です。(24歳!)

当時は徳間グループとしてはスタジオジブリのアニメーション制作で「
そんな状況下、ダイヤルQ²という世間で問題になってる事業を子会社でやってい
そして92年の春、僕が連れていった連れ子の事業(伝言ボーイ、テレホンパーティ)は終了することにな
僕はアイデンティティーを失いました。
なんのために徳間に転籍したのか、、、
もう大阪に戻ることも、今更フツーの就職もできません。両親には440万出してもらってダイヤル・キュー・ネットワークに出資
92年8月、僕は徳間インテリジェンスネットワークを辞めたのです。
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