私も履歴書  39|人間、到るところ青山あり。

2024年5月1日

 

僕にとってはインターキュー、まぐクリックのようなパターンでの上場との伴走は非常に刺激的な経験となりました。このビットバレーを端緒としたネット界隈のIPOを目指すベンチャーを応援することは半ばライフワークとなっていきました。

 

97年~03年の6年間ちょいで30社超の上場を目標とするスタートアップベンチャーに個人の資本で投資をしました。積算すると総投資額は3億弱でしょうか。

 

実際のところ、個人で投資したお金は、日広を通じた広告費用として回遊していきました。ていうかネットorモバイルのベンチャーへの投資を通じて、広告のお得意先を確保していたわけです。

多くのスタートアップ企業の立ち上げ時に出資を重ねてきたこと、日広の生業にてそれら企業の成長に伴走できたことは僕の半生の大きな金字塔になっています。結果として、インターキュー、まぐクリックのほかにも6社が上場を見事果たすことが出来ました

 

・株式会社ディジット  (後にSBIホールディングスに吸収合併)

 2000年9月 ナスダックジャパンに上場 現・ジャスダック

・株式会社おりこんダイレクトデジタル  (現・オリコン 4800)

 2000年11月 ナスダック・ジャパンに上場 現・ジャスダック

・株式会社テイクアンドギヴ・ニーズ  (4331)

 2001年12月 ナスダック・ジャパンに上場 現・東証一部

・株式会社デジタルアーツ  (2326)

 2002年9月 ナスダックジャパン上場 現・ジャスダック

・株式会社ディー・エヌ・エー   (2432)

 2005年2月 東証マザーズに上場 現・東証一部

・株式会社ザッパラス  (3770)

 2005年5月 東証マザーズに上場 現・東証一部

 

 

2000年9月、まぐクリックのナスダック・ジャパンへの上場を見届け、僕はメディアレップドットコムをインターキューに株式交換にて売却することに合意はしたものの、、D2Cの管理するiモード広告の非JAAA会員の広告代理店に対する、廻し権益を手にしたばかりだったこともあり、そのままメディアレップ業務をやめる気にはなれませんでした。

 

そこで僕は本間広宣さんを日広の取締役としてお迎えし、森さんがインターキューグループに移って以降のメディアレップ業務を託すというアイデアを思いつきました。
本間さんは、その直前までサイバーメディアマーケティングという光通信グループの媒体を販売するメディアレップの社長を務めていました。が、光通信の方針で同社の廃業がきまり、社員の転職先候補として、日広にも引き受けを打診に来ていたのです。

僕は若干26歳の本間さんが、僕がダイヤルキューネットワークの管理職だったときにまったく果たせなかった、部下の転職先の確保に奔走している姿をみて、感動しました。
そして、彼がサイバーメディアマーケティングで取り組もうとしていた、モバイルの一般サイトのメディアレップ業務に特化した会社をやりましょう、と提案したのです。

メディアレップドットコムがインターキューグループになった翌11月、僕は新たに子会社メディアレップジェイピーを設立し、日広の取締役となった本間さんにそのマネジメントを託しました。メディアレップジェイピーはその後、モビィリードと社名を改め、一般サイトのメディアレップとしてさまざま野心的な活動を進めていきました。

 

日広は、在宅コンタクトセンター会社である秘書センターやサイト制作会社ステックワイアードを子会社として展開しました。2003年には世界で最も尊敬されるクリエイティブエージェンシー Ogilvy and Matherと業務提携し、日本においてサーチエンジンマーケティングとオペレーションデスク業務を行う合弁会社(51% Ogilvy:49% 日広)Neo@Ogilvyを設立し、活動いたしました。

日広および子会社群は、2003年8月に新たにクエストネットワークスグループを掲げ、2005年まで順調に成長を続けましたが、この成長においても、モビィリードやNeo@Ogilvy、ステックワイアードの果たした役割はきわめて大きかったことを、ここに残しておきます。

僕は大真面目にインターネット広告の仕事が好きでしたし、ほんとにスタートアップの起業家とお仕事を通じて創っていくことを意気に感じていました。こんなに遣り甲斐のあることはない、長く楽しい日々は生涯続くのか、と感じたことも何度かありました。

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しかし2006年1月16日の堀江貴文さんの逮捕(ライブドア事件)を契機に、日広を取り巻く状況が一変しました。

そして僕はその変化に対応することはできませんでした。そのまま業績は急速に悪化し、2007年8月、僕は自身での経営を断念することになっていきました。全て己の不徳であった、と思います。

 

僕が日広の次の展開で考えていたことは、新しい時代に必要とされる新しい広告会社の業態作りでした。そして日広をNIKKOと改め、総合広告会社へと昇華させていくことでしたが、それは果たすことはできませんでした。

かつての雑誌広告枠の大仕入先でもあった創広の買収の失敗など、苦い思い出もいくつかあります。

 

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