私も履歴書  26|上京。そして世界初サービスのローンチ。 

2022年3月20日

 

 

1990年10月1日、僕はダイヤル・キュー・ネットワークで働くことになり、下目黒に建ったばかりのレオパレスに引っ越しました。
この日からアパート全4室とも会社ですべて借り上げです。毎日、皆してワンボックスの社用車で、恵比寿の会社に通うという段取りでした。

かたや大阪で営んでいた販促受託や運転免許合宿斡旋の会社リョーマはその頃20名の大所帯、社会人の社員も数名いるほどでした。僕は88年10月からは取締役にも就いてました。お仕事も、店舗のオープニングプロモーション、大広さんの下請けやリクルートさんの仕事などそれなりに取れていました。、、、にもかかわらず急遽、9月に入ってから、東京に居を移すことに決まったのです。

僕は23歳、関西学院大学の5回生。で、東京に引っ越し。普通に狂っています。周りがみな異常者だったから、その尋常でない選択に当時は疑問を抱かなかったんですな。

西山さんも、既に東京でのダイヤル・キュー・ネットワークの仕事で手一杯だったところで、僕にも特命案件が降ってきたのです。ミッションは京都の開発会社シスネットさんとともに、新サービス「FAX Qネットセンター」を開発し、可及的速やかにサービスを開始する、という件でした。

既にダイヤル・キュー・ネットワークが日本ではじめてダイヤルQ²を利用した総合型情報サービスを開始して10ヶ月が経過していました。同社がサービスの提供に利用したダイヤルQ²という仕組みは、当時NTTが展開しはじめていた情報料課金回収代行サービス。0990ではじまる番組番号に電話すると、ユーザーに通信料金以外に情報料金を課金し、その回収をNTTが代行する、というわけです。

ダイヤル・キュー・ネットワークの主力サービスだったQネットセンターとは、ユーザーにダイヤルQ2の代表電話番号にまずかけてもらい、その後4桁の番組番号を入力すると音声にて番組が聴けたり、その番組提供者にメッセージが送れたりする、後の言葉でいうポータルでした。そのFAX版サービスを開発し運用するというのが使命。

システムの開発はシスネットさんにお願いしていたので、担当となった僕と、同じく大阪からきた内田くん(リョーマの後輩)は番組の内容を考え、制作するのが主な仕事でした。A4ぺら一枚にいろんな情報をまとめるのです。渋谷終電・始発時間表とか、映画の時間割とか、ラブホテルマップとか、そういうのを作りましたねぇ。ユーザーはFAX Qネットセンターの代表番号にコールし、番組番号を入力すると紙一枚をQ²回線経由で受け取って100円くらい情報料金がかかる格好でした。

なぜ一刻もはやくFAX Qネットセンターをローンチしなくてはならなかったのか。
それは「日本初 世界初」へのコダワリでした。既に12月からのヤマト運輸による競合事業「伝言FAX」の新規参入の情報が漏れ伝わっていたからです。同社は運送事業からの多角化を狙い「伝言FAX」というブランド名にてダイヤルQ2事業を行う、ということでした。更に都内近郊のコンビニを中心に5000台!超のオリジナルFAX機 クロネコFAXを設置する、という企画書が出回ってしました。

これはダイヤルQ²というNTTによる課金代行サービスの幅広い認知普及が拡がる大好機ですし、ヤマト運輸よりも一日でもはやくFAX Qネットセンター事業を開始できれば、世間やマスコミの耳目が集められるはず...。そう見込み、アクセルを踏んだのでした。12月初旬開業の至上命題。あと2ヶ月しかない、という状況で下目黒と恵比寿、そして番組情報の編集部をおいた三田を往復する、上京いきなりギリギリとなりました。

が、内田さんらとシスネットの驚異的な頑張りにより、なんとか先方のサービス開始記者会見の一日前にFAX Qネットセンターも大手報道機関の記者さんを集めた会見とサービスのデモンストレーションを行うことができました。


その結果、直後の伝言FAX開業の大々的な報道にて、「その他にFAX Qネットセンターもある」といったオコボレ記事を多数獲得できたのでした。ベンチャーらしいでしょ。


無事にローンチのミッションをこなし、
年明け以降は部署異動となり、広告部と伝言ボーイやテレホンパーティの運営部門の管理職見習いとなりました。

 

 

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毎日朝から深夜まで下目黒の寝床と恵比寿のオフィスを往復する日々でしたが、きわめて刺激的でした。

とにかくみんな若いのでアホみたいに働く。

寝なくても大丈夫。

社内は忙しすぎて鬼の形相で日々パニックでした。

日が暮れても日付が変わっても目の前の仕事は終わりません。で深夜2時ごろになると、きまって真田さんや西山さんなどの役員が「よっしゃ飲みに行こう」と。で恵比寿駅前や西麻布に繰り出す。そして翌朝からまた仕事という日々・・・。

 

各拠点の担当になったダイヤル・キュー・ネットワークのメンバーは、事務所探しから支店勤務の事務職の面接採用、Qネットセンターの番組企画や営業から、伝言ボーイ(男女別のオープン型伝言ダイヤル)の広告物配布、更に自分で事務所のそとにある電柱をよじ登り、事務所まで電話回線を引っ張り込む特引きといわれる工事まで自分でやっていました。そんな沸騰するような日々の中で、僕はこのまま東京に残ろう。もう家業は継がない。継げない。

という人生最大の決断をしたのです。このままやりきるしかない。

 

※ 後日談ですがFAX Qネットセンターは、のちの徳間インテリジェンスネットワークではコア事業に格上げされました。また紙の新聞の発行を休刊した東京タイムス(徳間グループ会社)がこの技術を利用し東タイFAX新聞として後年発行を続けたのも懐かしい思い出です。