私も履歴書 24 |S.Y.N発足→OMO LOUGUE発行。リョーマはホットスポット化

2022年3月19日

 

なぜ真田さんが東京に行くことになったのか、西山さんが社長になることになったのか、僕はご両名から説明を聞いたことがありません。後に、真田さんがDREAMGATEさんのインタビューでこんなふうに説明しています。

https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/34151
【しかし、僕はちょっと好き勝手に暴れすぎたんでしょうね。西山から 「リョーマを抜けて、独立したい」という相談を受けたんです。社員の半分も西山についていくというし、これは自分が身を引くべきだと。僕は自らが立ち上げ たリョーマを去る決意をするのです。このときは、さすがに落ち込みました……。】

おおかた正確だと思います。ちょっと定かでないのは「社員の半分は西山についていくというし」ってくだりで。88年9月当時のリョーマの正社員というのは、僕を含む学生社員以外だとMY LISENCEの佐々木さん、鮎川さん、山下さんだけでした。 つまり西山さんは綱渡りの資金繰りを往くリョーマを運転免許事業部とマーケティング事業部に分け、運転免許のほうをご自分の資本でやっていこうという提案を、真田さんにされたんじゃないか、と思うんですよね。

つまり僕が聞いたのは、経緯ではなく結論でした。1988年10月1日、リョーマは組織変更を行いました。真田さんは上京!することとなり、非常勤取締役に。代表取締役専務だった西山裕之さんが代表として残り、社長となりました。

そしてバックヤードとMY LICENSEを担務していた佐々木康さんと、不肖僕が取締役に就きました。 すなわち…僕は生涯初めて法人の役員となったのです。

真田さんが去るという衝撃はきわめて大きかったのですけど、同時に西山さんに役員に任命してもらったことについては、とにかくすごい興奮したことをおぼえています。

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ということで、真田さんは9月中旬から東京に行ってしまったのですが、僕とは毎週のように連絡をとっていました。
真田さんは上京して、それまで(僕も)何度も泊まらせてもらっていた、今井祥雅さん佐藤修さん中宅間慎一郎さんが主宰?していた溜まり場マンションの一室「三田倶楽部」に転がり込んでいました。

東京で真田さんが今井さんと共謀して最初に進めたのは4月に発行したサークルカタログを、翌春いまいちど東京大阪でやろうという企画でした。彼らには日本信販に替わる大口のスポンサーとなり得る株式会社ミヤマ(レオパレス21)が視界に入っていました。

関西版のサークル情報を集めるのと広告営業はリョーマのマーケティング事業部で出来ます。では東京版はどうするのか。日本信販ViePLANカードにはもうその意思はないようでしたし、サークルカタログを軸に「キャンパスマガジン」の発行を季刊ペース(年3-4回)に持っていき継続収入にしていきたいという目論見もありました。

今井さんからはそれまでもリクルート「キャンパス・センサー」大学前配布、グループインタビュー(という名の優秀な大学生の青田買い)といった東京発の仕事を連続的に発注してもらっていました。

両名が仕込んだ座組が、日本たばこのプロモーション受託では大手の代理店の東洋センカでした。同社の大学生向けプロモーション専門の営業部隊のような位置づけで大学生ばかりの「サークル」を作る、というのです。そのサークルを母体に、翌春のサークルカタログの発行を行う、のだと。真田さんは、東洋センカ側には主たる金主=ミヤマを見つけてきてるので低いリスクで出来る!と見得を切っていました。間もなく東洋センカが用意した「サークル」の事務所的な場所は、渋谷駅徒歩10分にある秀和第二南平台レジデンスのマンションの一室。

S.Y.Nと名付けられた、そのサークルは東洋センカが請けていたSomeTime Lightの Sとセンカの S が掛かって、あとに続くYoung Networkの略ということでした。なるほどS.Y.Nは日本たばこからの仕事も充て込まれていたのです。

斯くして、89年版サークルカタログの営業と編集が東阪揃ってキックオフとなりました。真田さんと今井さんが集めたS.Y.Nのメンバーとは、その後生涯に続く付き合いになるのですが、どのように集まったのか、集めたのか、よく解っていません。 とにかく最高な彼らについては、また別の機会で掘り下げて文字にしたいと思います。

僕が考案したキャンパスマガジンの名称「OMO LOUGUE」は、リョーマとブロックタックのメンバーのブレストで選出してもらいました。(本誌はこの名称でリョーマが破綻する92年まで毎年4月発行されました。)

そうして圧倒的な存在だった真田さんが抜けた後も、 88年~89年にかけて株式会社リョーマは西山さんが核となり、高橋信太郎さん、松本浩介さん、林圭介さんらが中心となって、ViePLANマガジンが起点となって集まった学生社員たちをも巻き込んで、カルト集団が如くなりました。

顧みるに、誰よりも僕自身が最もやる気に満ち、熱くなっていた自覚があります。この時分は主役感というか、身の回りに起こることがいちいちドラマチックに見えるようなってました。

OMO LOUGUEの制作等のために東京に行くたびに、聡明で熱いS.Y.N、三田倶楽部のメンツと逢う度に、ヘルシーな嫉妬を感じる、と同時に 猛烈に目線が上がっていきました。当時のメモを見かえすと、そんな自分の変化・感化がよくわかります。
真田さんの蒔いたリョーマの勢いは衰えることなく、関西のヤングマーケットむけの販促界隈を、夜のミナミの ちょっと知られてる顔はだいたい顔馴染みな無双状況を強固にしていったのです。 僕らは、夜な夜な西中島南方やミナミの居酒屋、ディスコ、バーで、「俺たちイケてる学生エグゼクティブ」気分で、これから自分たちが世界を変えるんや!と唸り合うようになっていきました。行く先々で声を掛けられるようになり、天狗の鼻も伸びる一方になっていました。

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ところでリョーマの役員任命は、それまでリョーマのことを一度として説明していなかった両親に対して、経緯を含めてちゃんと自分の口で開示し、取締役に就くことを承諾してもらわなくてはならない機会となりました。それが西山さんからの条件でもあったのです。

それまでに父親からは何回か「アルバイトに夢中になって…」というひとり言のようなことは漏れ聞いていました。
自宅生にも拘らず、それくらいリョーマに棲んでいて、週に2,3度しか寝に帰らない日々が続いていたからです。

内心どこかで反対されるかも、という感情があったので、すんなり承認されたのは驚きました。普通の家庭だと反対されますよね。僕は21歳の大学3回生でしたからねぇ。西山さんはそれまでも何度か実家にきていたこともあり、印象が良かったのも一因かもしれません。

ただ一つ同時に父から妙な条件が出ました。それはリョーマとは別に、近々新たに新法人を創るので、その会社の筆頭株主かつ代表発起人になれ、ということでした。損害保険の代理店を創業するというのです。他の株主は、父の営む丸一興産の社員個人そして父の友人の数名ということでした。

(後になって、この会社は丸一興産の営む工場にかける損保などの代理店業務を行うことを主業とするために作られたことを知りました。2010年5月に僕以外の株主から全株を買い取っていますが、その際に初めてお会いした方が大半でした。)

この有限会社ツネヨシの発起人を引き受けたのは、リョーマ取締役になることを認めてもらう為でしたが、同時に自分のなかではその先もリョーマを続けていくことと、家業(マルイチグループ)を承継することを、同一軌道上におけないか、という妄想が繋がったが故でした。もちろん父にとって、僕のリョーマは「アルバイト」程度だったとは思いますが、この時期の僕の脳内ではそういう思考だったのです。