私も履歴書 42 |日広はGMOインターネットグループの一員へ

2007年10月。僕は楢林さんの「シンガポールへの移住」お申し出がキッカケとなり、NIKKOの新しい大株主(要するに親会社)をGMOインターネットグループにすることを心に決め、役員とも合意しました。

 

双方ともに創業以来のお取引関係があり、07年時点では最大手の取引先だったので、もともと身を寄せる先として最も現実味があったのです。
・GMOグループ内に機能競合するグループ企業がない。
・GMOグループの主要事業の広告活動(制作、メディアバイイング)を長年やってきた。
・GMOグループの発売する広告商材を積極的に販売してきた。

 

当時のGMOグループは消費者金融業の過去10年の遡った過払い規制(グレーゾーン解消)返済の決定の余波をもろに喰らい、NIKKOのそれを遥かに上回る規模=400億円の損切り断行中 で危機に陥っているさなかではありました。

 

が、僕は「確かにGMOはGMOで創業以来の存亡の危機だと思うけど、しっかりしてるからこれは乗り越えられるでしょ」と思っていましたし、
比べるとNIKKOの取得などは1%にも満たない誤差レベルM&Aなので、PMIなどで物理負担は当初考えられるけど、それも大丈夫かな、と。

 

それよりも、僕自身は
・残る経営陣による運営の当面の独立性の維持、
・会社名の継続を含む、企業カルチャーの保全、
など、企業文化をしっかりと尊重してもらえる先なのか、ということを重視して、GMOグループがいいと判断したのです。

 

翌11月、並行して折衝していたもう一社にはキッパリとお断りしました。
そちらは大きな伝統的広告会社様系だった(そして良い条件を出していただいていた)のですけど、どーも僕にはライブドア事件が端緒となった日本のスタートアップ、2000年以降の新興IT企業の株価総崩れに、もっと大きな経済的リセッションがまだ続くのではないか…  と割と確信に近い脅威を感じてたので、ドメインとレンタルサーバー、課金回収を事業の軸としてるGMOグループのほうが、やがて不況が日本を襲ったとしても安全じゃないか、と考えていたのも事実です。

 

ただ、
・それまで僕がワンマンオーナーシップを振りかざしてやってきたこともあり、
・創業当初6-8年は、ほぼ加藤の個人事務所に毛が生えたようなものだったこともあり、(黎明期のお客様・仕入先が、僕が離れてどうなるのか?)
・(果たして企業文化をしっかりと尊重してもらえるのか?! といった)僕自身がNIKKOの株式を完全に手放すことには心理的な抵抗と恐怖があったこともあり、
新たな親会社として、僕個人の株式を買い取って支配する方式ではなく、
火の車だったNIKKOの財政事情の改善のために、新株66.7%発行しGMOグループに割当て支配子会社にする途を望みました。

 

 

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さて
僕は持分を落として、33.3%の株主として残ることになりますが、それをした場合は主導権を渡しても、僕にはキャッシュインはありません。
僕は僕で1年半に及ぶ日広の苦境を、主に個人の負担で凌いできたので米櫃は尽きていました。

 

なので、
新株発行して、会社は助かるけど、さて僕個人はこの先どうやって生きていくのかね… とかモヤモヤと考えていた時期だったのです。そこに、突然に、楢林さんからのお申し出があった。

 

いや、これは天啓か、渡りの舟か、という心境で、GMOグループへの新株発行を決められた、というわけなのです。

 

【追伸】 その後の翌5月の公表と最終出勤前後、そして手元に残してたNIKKO株式33.3%の行方については、以下のブログにまとめています。 
関連エントリ:■ NIKKOを手離して、まる四年が経ちました。あの頃の備忘録。 https://katou.jp/?eid=343