私も履歴書 6 |運転免許合宿+学生ツアー 2

よくよく話しをきくと、真田さんは既にその前年1985年から、大阪星光学院中学・高校の同級生であった西山さんを巻き込んで、合宿制を導入している自動車教習所の斡旋事業を始めていました。

当時、合宿免許と学生ツアーの合体(運転免許合宿の教習の空き時間にスキーやダイビング
ができるという、カップリング)という珍アイデアを思いついた真田さんも、、、あまりに手立てのない業界でが故に手を出しかねていたところに、どういうわけか教習所への機材販売会社の社長と知り合うことができたそうです。

そして、そこの社長に
・自動車学校の近隣にあるテニスのコートや、スポーツクラブ、ダイビングスクールなどの施設と提携営業をし、学生ツアーのようなメニューを作る。
・杓子定規で堅苦しく、しかもヒマな運転免許合宿を、それを楽しいレジャー満載、そして異性との出会いもあるというイメージで打ち出せば、きっと流行る ・・・

このアイデアを持ちかけてみると「おもろい」ということになり、利益折半の条件で合同事業化にまでもっていったということでした。

自動車教習所への営業はこの会社が行い、集客の方は真田さん・西山さん組が担当ということで動く、という分担です。
確かに、それはニーズあるで、だって退屈やもんね。

さなさん達の変わっていたのは、その顧客獲得の手法。

学校の校門前でのチラシ撒きです。 まずターゲットとなる高校を絞り込みます。付属高校、つまりほぼ自動進学できるような私立高校だけを選んでいました。彼らは大学進学への受験勉強をしていません。 彼らが興味があるのは、その半年前の僕同様に運転免許取得のはずなのです。さなさんたちは高校や予備校、あるいはミナミのディスコ仲間のルートを使って、営業をしていたというのです。

86年3月、真田さんと西山さんは各高校の終業式の日を調べて、次の日から入学できるスケジュールをつくり、高校ごとに「○○高校の皆様へ」という合宿免許案内のチラシをつくり、配ったそうです。

「それは面白い!っす。さなさん」

僕は公立の高校出身で受験をちゃんとしたフツーの高校生でしたが、半年前の僕の心境・状況・環境、まさに僕が生まれてからずっと貯めてきた全財産、有り金のすべてをはたいて、運転免許取得に一点集中投資した、あの生々しい経験の記憶がまだはっきりとありました。

これから免許を取得しようとしてる潜在顧客層のもつであろう不安や躊躇、親との会話、、そこに至る心境や状況は、僕にはとてもリアルでした。

同じ世代を対象にした商売、にもかかわらず、22~26万円の高単価が見込めるという事で、これは「強み」になるぞ、とか考えたり。

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1986年11月15日。
僕は、この日から借りた西中島南方のライオンズマンション新大阪第三の1108号室にいました。11平米ほどの、うなぎの寝床のようなワンルームマンションでした。

その、、教習所への機材販売会社には自動車学校との契約金等を肩代わりしてもらっていたらしいのですが、
逆に程なく、この会社に教習費の売上を持ち逃げされてしまい、、残念なことに、真田さんと西山さんは仕入れ先の自動車学校に対して多額の未払いを抱えることになったそうなのです。

部屋の入口に掲げたブランド名の「マイライセンス」とは、その売上を持ち逃げされた会社の中で立ち上げたものでした。

この看板を引き継いで、どっこいこの事業でリベンジしてやろう!という気概は、むしろ、実質…その日初めてお逢いした、西山裕之さんのほうに感じました。

なんか精悍な野武士のような風貌の西山さんは、とにかく爽やかな方でした。

そしてこの日が、僕にとっては合宿免許斡旋事業に参加する、実質的なスタートとなりました。

最初の作業は、西山さんについて江坂の東急ハンズへの買出しです。
買ってきたダンボールパイプを組み合わせて、机を作り、壁づたいに置きました。外からお越しになったお客様のための受付カウンターのようにして、狭い部屋を間仕切りました。

運転免許合宿のマイライセンス。メンバーは真田さん、西山さん、そして僕の3人。

(↑写真は1989年のMY LICENCE年賀状。)

19歳で大学一年生だった加藤順彦でありましたが、、、その日から、唐突にも「えせ社会人生活」は始まってしまいました。

真田さんからも西山さんからも、給与とか、そんな話はなかったですし、ほんとにどうでもよかった。

そう、僕はずっと前から、こんな商売のようなことがしたかった のです。きっと。