私も履歴書  31|日広、雑誌広告で大躍進。

2024年5月1日

 

 

ノリと勢いでぽんとこしらえた日広は、当初から単月収支が黒字でした。

 

どーんと広告予算の有るツーショットの大手事業者が広告主として(しかも競合の広告代理店さんが連絡が取れない・・・)しっかりとついていたので、出だしを滑り出すことが出来ました。とんとん拍子で仕事も増えるようになったんです。

 

ちょうどその時期にツーショットダイヤル産業自体が大きくなっていた、というのもあったと思います。私は別に、広告会社を経営するノウハウなんてものは持っていませんでした。それでも、お客さんがとにかく広告出稿を必要としていたので、その広告を仕入れてくれば、売上もどんどん伸びていくわけですな。

 

90年に入った頃から爆発的に市場が大きくなった、、当時のレディース・コミック(成人女性向け漫画雑誌)の広告主はもっぱらツーショットダイヤルの運営会社でした。
というかツーショットダイヤルの広告主が増えまくったので、レディース・コミックの産業が大きくなった、のです。いま思えば。
ツーショットダイヤルとは、男性はダイヤルQ²(電話番号0990ではじまる情報料金課金回収代行サービス。NTTが運営)か一般電話回線(03などではじまるサービス番号。利用代金は銀行振込)、女性はフリーダイヤルに電話をかけ、ランダムに結線する。
気に入らなければワンプッシュで別の異性に繋がるという、男女の会話のマッチングサービスでした。
このサービスはテレホンクラブという、電話を利用した店舗業態が発祥でしたが、ダイヤルQ²の登場と普及が契機となって、自宅の電話からも気軽に利用できるようになった事から、人気が爆発的に(社会問題になるほど)高まっていました。

 

ていうか、その社会問題化のお陰で、もともと僕らが’89年に出資して創業したダイヤルキューネットワークは生け贄となり破綻し、徳間インテリジェンスネットワークへと営業譲渡されたわけだったのですが。

だから多くの出版社や、数多くの広告代理店が、当時は創刊号の企画書(ペラ一枚)だけでも、びっしり広告を埋めてくれていた、ツーショット業者の大手と直接接触することは叶いませんでした。そんな中、僕は直接のパイプラインがあった、というわけでして。

日広は、ツーショット広告の領域は顧客をがっちりグリップしていたので、いい商売でした。1994年のピーク時には毎月届けられる広告取扱いの掲載誌・見本誌だけで150種を超えていました。あのころは毎月5~600ページ売ってました。とにかく薄利多売で忙しかったなぁ。社員/バイト5、6人で紙焼き/版下/MOの入稿をぶんまわします。

実際の広告掲載誌も、版元や廻し代理店から取扱1ページにつき最低2冊は届くので1200冊/月 以上がバンバン佐川ヤマトで届くわけです。
お得意先に広告掲載誌をどんどん発送していかないと、気を抜くと事務所が雑誌で埋め尽くされる勢いでした。客観的に観れば、この状態は駆け出しの商売としては大成功の部類といえる、でしょう。
のちに振り返れば、日本の雑誌広告市場のピークは翌1996年でした。これには、ある種の必然(雑誌とネット、市場のトレードオフ)もあるかとは思います。
おそらく雑誌の販売市場そのもののピークもその年でしょう。
(96年の雑誌の総発行部数は51億2千万冊/約4000誌発行されていた、というデータもありました。)

 

最初の3年弱は、そんなわけでツーショットダイヤルの雑誌広告だけで食い扶持を稼いでいました。気がつけば、94年度は売上も10億を遥かに越えていました。

自分がそんなにたいしたことなくても、成長産業の追い風をつかむと伸びるんだ、すごいなぁと思いました。

 

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