家業から逃げた僕が、唐突に承継を決意した経緯。|LEON連載 Vol.15再掲
バブル絶頂の1989年=大学4年生の初夏に、人生観が一変するほどの衝撃と興奮を得ました。真田哲弥さん(現KLab取締役会長)から、NTTによる情報料金回収代行サービス(ダイヤルQ²)を使った情報サービス会社ダイヤル・キュー・ネットワークの事業構想を聞いたのです。
それまで僕が大阪で取り組んでいた学生企業「リョーマ」とは次元が異なり、同社は“会社”として日本一を目指す成長を掲げていました。その年の秋に設立された同社には、やがて日本中からダイヤルQ²に夢を見た海千山千が来るようになったのです。
その様を見て驚くと同時に、僕は一度、心に決めていた家業承継はどうも面白そうでないことに気づきました。金属・鋼材の加工と卸売業を営んでいた家業は従業員30名ほど。祖父が創業し当時はそれなりの規模の中小企業でした。親の期待に背くか否か、悩みに悩みました。で、その果てに宿命から逃げるように、1990年秋に上京。僕も真田さんと一緒に日本一を目指したい、と決めたのです。要するに僕はワクワクする方を選んだわけです。
それを知ってからというもの、年に一度は帰阪するようになりました。もっぱら両親に顔を見せるためだけでしたが。25歳で広告会社「日広」を起こして以降、16年ほど東京で営んでいましたが、大阪の得意先を作るのは乗り気になれず、支社も作らずじまい。シンガポールに移ってからも何度となく大阪ベンチャーへの投資の機会はあったものの、むしろ他の地域や東京のスタートアップよりも厳しい眼で診てしまったこともあって、参画が実現した会社はありませんでした。
いまにして思えば、好き勝手に自分のやりたいことに手を出した僕は、どこか無意識のうちに家業のアトツギになってくれた弟の目障りにならぬように慮っていたのです。僕の所為で彼の人生を変えてしまったのではないか、という呵責から。僕に比して社交的でも営業肌でもない弟が、右肩下がりの関西で、ベタベタの金属・鋼材の加工や卸売を継いでやっていくのはたいへんだろうと、どこかで感じていたと思います。
翌5月、僕は喪なった弟の後任として「株式会社マルイチスチールセンター」の代表取締役に就きました。そして創業から足元までに至る轍を月日をかけ、初めて理解・把握・整理しました。以来、家業をいかにして次代に繋いでいくのか。このことが僕にとってこの先を生きていく最大の課題の一つになったのです。弟は生前、2010年に厳しい国内市場の冷え込みのなか、同業大手の三栄金属に鋼材の卸売及び加工業の譲渡をしていましたが、今なお大阪市此花区には大きな社有地と加工施設と資材倉庫が遺されています。
70年におよぶ実績と資産が活かせる新たな生業を、僕が接ぎ木することで次の世代が承継することを検討する価値のある事業へと再生して繋いでやろうと。思考と準備に励むことを決めて日々過ごすなか、2018年2月、己の講演会を聴講いただいた方との名刺のやり取りが、のちに閃いたアイデアと繋がったのです。先般より稼働しはじめた新領域、理美容用ハサミの中古買取りと研ぎ、修理の事業を通じて経済を大きくしていきたいと考えています。
初出: LEON.jp 加藤ポールの「激動の投資家人生」 連載 Vol.15 (2019年2月5日)
写真は父の葬儀(2019年12月)に集まったマルイチグループ理美容シザー事業のメンバー。(左から安藤和範さん、奥村真也さん、加藤顕太郎、加藤順彦、加藤精吾)