私も履歴書 23 |サークルカタログの配布と成果。万能感到来。
3月も10日過ぎになってようやくサークルカタログViePlanマガジンの関西版の独自編集ページの制作が終わりました。各ページのデザインと制作は、岡村茂樹さんが主宰するブロックタックに頼り、なんとかゴールまで辿り着けたのです。
本誌は日本信販が大学生向けのクレジットカードViePlanの販売促進を行うための『冠』フリーマガジンでしたが、そのリョーマとしての制作受託の折に、本誌中に日本信販と競合しない他業種の広告も掲載しても良いという許諾を得ており、高橋さん、杉山さん、松本さんなどの営業は本誌に掲載する広告を営業していました。…この営業も締め切れました。
サークルカタログ掲載のための各サークルからのアピールイラストと掲載スペック<ジャンル、所属大学、人数等>も目標の400サークルに幾つかデッチ上げましたが…なんとか到達するところまでもっていきました。
そして最終的な印刷は、東京版との共通ページを嵌めた上で行うので、出来上がった版下を東京に送るのです。印刷部数は、関西版、首都圏版、それぞれ公称10万部(広告営業用)でした。実際は半分の5万部が3月27日ごろに、大阪に届きました。
*******
50冊ずつ一梱包で括られたViePlanマガジンをみんなで事務所で観たときの興奮は、今も忘れません。
僕の実家(豊中市東豊中町)にも関西大学など主に北大阪近郊の大学・短大で配布する予定の本誌1万5千部が直接、東京から運び込まれました。ぎっしり埋まって家の駐車場にクルマが停められなくなりました。
4月1日から12日まで、京阪神の40を超える大学/短期大学の入学式の校門で、僕ら自身が毎日、出来上がったサークルカタログをクルマで運んで、晴れの日を迎えた新入生たちに直接手渡しする、というのが、この企画のコア。僕らスタッフは手分けして毎日、各大学の校門前に立ち、新入生ひとりひとりに配るのです。もちろん、僕も毎日、早朝から各大学を回りました。関西大学や近畿大学などの大きな大学ではいちどの配布で5000部以上捌けていきました。
次第に腰退け気味に付き合いだからと出稿してくださった広告主たちからもレスポンスがあったという連絡が届きだしました。なかでも小さい広告枠をご購入いただいた梅田やミナミの居酒屋さんやカラオケバー、ビリヤード屋さんからの反応は非常にストレートで、新入生の皆さんがViePlanマガジンを隈なく読んでくださってるのがよくわかり、とても嬉しかったです。もちろん僕ら自身の事業であるMY LICENSEへの電話もありました。そうですね。もうゴールデンウィークがみえてきた頃ですからね。 (写真は往時、販促用で配ってたテレホンカード)
真田さんの仮説のど真ん中は【新入生のいちばんの関心事はサークル選び。だからこそViePlanマガジンは捨てられず、精読される】ということ。ビビッドな広告の反応はその真価をしっかり示すもの。僕らはそれが立証されたことにたいへん興奮しました。
そして、もう一つの狙いだった株式会社リョーマの存在を、関西一円に、そして東京に狼煙を上げることができることもできたのではないか、と自己満足していました。少なくとも僕自身はそうでした。…というのも、ゴールデンウィークになる前にも、僕の記事※ を見て『リョーマの学生社員』になりたいという新入生がちらほらと現れていたからです。神戸大学の佐藤栄哲さんは最初の数名のひとりで、その対応をした僕自身がそのときのことを鮮明に憶えています。
※ 寺下光彦さんによる掲載記事の文字起こし: 学生? 部長? これが関西一超多忙学生の実態だ!|VIE PLANマガジン 関西版 88年4月
***********
もうひとつ、僕らはこの1988年3月から4月にかけておおきな変化をしていました。
リョーマはブロックタックさんと共に、4月に新たに竣工入居が始まった新築のオフィスビルである新大阪末広センタービル5階に移転したのです。そう、それまでのオフィスだったライオンズマンション新大阪第三1108号室と802号室を出て。 (802号室はそのまま西山さんが住居に使いました。)
オフィスビル!ですよ。僕はまだ大学3回生になったばかりで…まさかの新築オフィスビルぴかぴかでした。昂奮したなぁ。
この頃には僕は毎日!スーツを着るようになりました。大げさでなく、ViePlanマガジンを観たという方から梅田の路上で、ミナミのディスコで、関西学院のキャンパスで声を掛けられるようになってました。意味なく土日も着てました。
これは、往時のニュース番組『アタック600』での報道一部です(本編8分もありましたw) https://www.instagram.com/p/rM4rPpCzRp/
この結果はまさに真田さんの予想通りではあったのですが、僕も天狗になってたと思います。それで自分を大きくみせるためにスーツを脱げなくなりました。梅雨の、初夏のキャンパスでスーツ&ネクタイです。しかも肩からショルダー電話下げてました。アタッシュケース持って大学と会社を往復してました。冗談じゃなく、ほんとにほんきで。まさにいわゆる万能感ってやつが降りてきていました。
ほどなく入った夏休みも毎日、朝から深夜までオフィスかミナミなのです。帰れなくなったら泊まるか、802号室でみんなと雑魚寝するか。
異様な根拠のない自信をまとった僕は、新しく増えた学生社員たちにも、
そういう生活が当たり前なのだ、
大学なんて行ってる場合じゃない、
サークル活動なんてやってもしょうがない、
リョーマはこれから日本一の学生企業になるのだ、
リョーマの学生社員は全員!近未来に社長になるのだ、
と大真面目で説いてました。
ぴかぴかのオフィスで、向かいの居酒屋で、ミナミのディスコのVIPルームで、深夜のバーで。
*******
だからびっくりしましたねえ。
真田さんがリョーマの社長を降りて東京に行くことになった、ということをきいたのは、夏が終わる頃でした。
そのことを真田さんと西山さんの口から、メンバー全員に説明されたその日まで…僕は微塵もそんな日が来るなんて思ってもみなかったのです。青天の霹靂に、僕は唖然茫然でした。