志ある人が魅き寄せられる【磁場】をつくること

2023年12月14日

物心ついた頃からの漫画好き。特に小学生・中学生の頃は石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、そして手塚治虫、、、各巨匠には絶大なる影響を受けました。

当然、彼らのインタビューや自伝的漫画も読み耽るわけですが、その中に共通して出てくるのが「トキワ荘」というアパートです。

手塚治虫先生に憧れた後進たちがその後光を浴びようと集まったその場所には、漫画執筆という孤高の作業を、強烈に動機付ける【磁場】のようなパワースポットであったようだ、というのはおぼろげにもハッキリと幼心に刻まれていたのです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

87年12月。株式会社リョーマでは、大学新入生向けのサークルカタログの製作と、2月からの大学の合格発表にあわせた運転免許合宿のパンフレット制作が平行して進んでいました。

真田さんと西山さんは借り増しした新しいオフィスに学生のスタッフ候補を毎日連れてきてました。20歳の僕も、小学校からの友人を偶然に梅田駅で見かけて、引きずり込みました。

とにかく人手が足りませんでした。
2月に入れば運転免許合宿のパンフ配りがほぼ毎日、大学の合格発表に合わせてあります。2月末までにはサークルカタログの広告も売り切らないといけません。

ところが 友人知人の大学生を勧誘しだして、よく解ったことがありました。

リョーマのような大学生ばかりの企業ごっこ(いわゆる学生企業)、僕は楽しくて嬉しくて朝から晩まで仕事(?)をしていましたけど、みんながみんな面白いと思うものでないようなのです。

まぁ、そもそも時給なんぞありません。
一応タイムカードのようなものはありましたが、実質意味なし。一日14~16時間働いても給料(?)は月3万とか。要するに新興宗教の細胞と一緒です。お金を得ること、は全く参加する動機にはならない。

…であれば、ナニが動機になるのか。     ずばり、人 です。
それは僕自身が身をもって知っていたこと。僕がリョーマに毎日朝から晩まで居た理由は、それだけでした。とにかく真田さん西山さんと一緒に居たかった。そう、二人は僕にとって刺激のカタマリでした。全てが新鮮で、己がぐんぐん成長している感じが足にキテました。

しかしながら、同じような生き方に興味を持ってくれる人は多くない。
いや…かなり少ない。で、あるならば普通に募っても見つからない。そもそも求人媒体に広告出せない。労働基準法もへったくれもない。ていうか、給料の設定がない。

そこで僕は製作中のサークルカタログに 自分自身が紹介される側の人として出ることにしました。僕が日々どのように生きているのかを記事にすることで、同じように生きてみたい人を募ることにしたのです。

なんせサークルカタログは公称10万部(実数5万部)を刷り、大学入学式の当日に校門前で新入生に配るわけですから、きっと…僅かな変わった人が記事を読んで連絡をくれるはずです。

特集では「関西で頑張ってる大学生のセンパイ」として、さまざまな人を取り上げました。フリスビーで世界一になった人、アメフトで大学日本一になったチームのQB、アイセックの活動で世界中飛び回っている人、、、その中に僕の紹介も混ぜました。

両手に黒電話の受話器を持った満面の笑みの僕の写真。
スーツを着て名刺を持ってショルダー携帯電話を抱えて大学に行き、授業に出ずに学内で企業の宣伝やイベントのポスターを貼ったり、学内でグループインタビューをやったり→
大学帰りに営業に行き、クライアントと打ち合わせ→
そのまま会社に出勤して営業会議&フォロー電話→
夜はミナミでディスコまわり、店長や学生サークルの代表とVIPルームで打ち合わせ→
そのまま先輩のおごりでカラオケ行って、終電ないので、朝まで事務所で寝る→
そのまま朝礼出てから、また大学へ→ …  (無限ループ)

といった当時の日々の僕の生活を文字にしてもらい、結びに新入生へのリョーマ学生社員の勧誘文句を入れました。

予測は的中しました。
88年4月。無事完成したサークルカタログを関西一円の大学短大の入学式で配りました。案の定、そんな変わった加藤の日々の描写を見て、我こそはという新入生が7,8人ほど集まったのです。

それから僕はそんな新入生の彼らと机を並べて働き?はじめました。昼夜惜しまず、大学にも行かず、営業とビラ配りとディスコの日々です。

しばらくして、ふと僕は「リョーマは、まるでトキワ荘だ」と思いました。
そのことを仲間に伝えると「いや、むしろ梁山泊とちゃうか」と。

水滸伝に出てくるというその場所の喩えは、胸を刺しました。なるほど梁山泊か。

近い将来ベンチャーで大成したい!そんな学生ばかりの、このリョーマは来るべき21世紀を睨んだ梁山泊を目指すのだ と心に決めたのです。

89年5月、最盛期を迎えたリョーマは学生社員だけで20人を超えました。ほぼ無給で朝から晩まで一緒です。合間に学校に行くのです。授業が終わったらまた会社に帰ってきます。家に帰れない日は会社で寝ます。

22歳になった取締役の僕は、そんな彼らにまじめに「将来、全員社長になることを目指そうやないか!」と、社内で唱えていました。
アホです。いや狂っています。
しかし当時の僕は自分に酔っていました。そうなるもんだと思っていました。

磁場の力とは、かくも凄まじいもの なのだ、と今改めて思います。

リョーマは、ダイヤルキューネットワークの立ち上げのために主要メンバーが東京に動いてからも在り続け、多くのプロモーションの実績を残しました。サークルカタログOMOLOGUEも6年間発行しました。

いま、かつてリョーマに在籍した40人近い元学生社員、元社員が社会で活躍しています。そして多くの人たちが経営者になりました。

108人はできなかったけど、11人は社長になったかな。
いや当時のリョーマのことに動機つけられて、我こそは!と起業に至った人も結構いたから30人くらいには影響できたかな。

のちのダイヤルキューネットワークも、NIKKOも、そして今も、志ある人が魅き寄せられる【磁場】をつくること奇跡を起こす最短コースだと信じて、ここまできました。

そして昨年、僕は新たな磁場を創ることに挑みはじめました。そのことは、また次に。