日本を出てシンガポールに行こう と決めたのは

2020年5月29日

 

大阪を出て東京に行こう と決めたのは
1990年、大学5回生の9月でした。

大阪でやってた学生企業のリョーマはその頃15名の大所帯、社会人の社員も数名いました。
加藤は前年からは取締役にも就いてました。お仕事も 店舗のオープニングプロモーションや、大広さんの下請けやリクルートさんの仕事 などそれなりに取れていました。若い企業ではありましたが、ちゃんと企業としてお取引をしていただける会社も増えてきていました。

大阪には大阪弁という「コトバの膜」が張ってありました。
その膜の内側はとても心地よいものでした。

毎晩のようにミナミに出かけてましたけど、馴染みの店はどこも、客を身内として扱ってくれるような暖かさがありました。ミナミ中みんな顔見知りのノリです。

そういえばリョーマで販促やイベントの仕事を営業しているときも、仕事になる、というか仕事を出していただけるのは、弟分というか、内側に入れてくださるお得意先ばかりでした。「面倒見たってください」って感じで。
それが大阪のルールだったような気もします。

いっぽうで東京の広告会社やSPの会社も数多く大阪に進出していましたが、とても苦戦していました。当時は関西での地場の商いは関西の会社にしか出来ない、と言われていたほどです。そのくらい「コトバの膜」は厚く硬く強かった、と思います。実際、リョーマの仕事は東京発注の仕事の下請けが多かったです。

大阪には大阪人になった人、しかいませんでした。
だから外から引っ越してきた転校生は、まず大阪弁を話せるようにならないと友達が出来ませんでした。

膜の内側では東京への反骨精神が醸成されていました。
「東京もんはイキリ」
「東京コトバはきもい」
あたりは普通。

「東京は冷たいし薄情」とか
「東京は商売が難しい」とか
「東京は田舎もんの集まり」とかは、ほぼ共通認識。

「大阪は日本の商都・経済の中心」
と、言っていた人も数知れず。
「上場企業の3割は関西に本社があるんやで」
と関西の優位性を力説していたお取引先の社長もおられました。

そんな中で、私は東京に出て行くことに決めました。

前年(1989年 新法人ダイヤルキューネットワーク設立に参加)から東京と大阪を行ったり来たりしていた私は、いろんなことに気づきはじめてました。

・日本中どこにいっても大阪弁で話そうとする大阪人は、保守的で柔軟性に欠けている人が多い

・関西人以外を遍く異邦人扱いしている大阪人は、排他的で視野が狭くなりがち

・大阪は関西で商いをするのであれば身内主義の地の利があるが、日本全土を相手に商売するのであれば逆に不利。(大阪ルールは通用しない)

・そんな人に限って、だいたい東京に強い対抗意識もっている

※もちろん上記の人たちというのは、学生時代の自分を含む大阪にいた一部の人たちの傾向であって、1990年当時の大阪人全般にあたることではありません(汗)

ときはバブル景気の絶頂期。
いい意味で地方出身者の坩堝であった東京は、柔軟な多様性(Diversity)をもって、日本経済を力強くリードしていました。

リョーマの同僚が中心となり、東京に設立したダイヤルキューネットワークという会社もまた、日本全土をフィールドにした商売をするのであれば、その本丸は大阪ではなく東京に碇を降ろさなければならない、という判断だったのです。

設立当初の五反田の事務所は「ここは大阪か!?」と錯覚するほど、大阪弁で溢れていましたが、人数が増えるに連れ、日本全国から若者が集まってきました。

そして同社はアッという間に全国4箇所に支社を設置しました。大阪に本社があったらこのスピードはなかったでしょう。

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パン アジア規模の進出支援するってのはわかるんだけど、なんでシンガポールなの?というご質問をよく頂戴します。

20年前の大阪 と今の日本 を重ねて考えると似てない部分も数多いですが、日本語という「コトバの膜」の内側に閉じこもっていたり、通用しない日本ルールを基準に考えがちなのは、いまの私には 事実 です。

シンガポールがアジア経済の中心なのか、どうかはわかりません。
しかしながら 日本がいまアジア経済の中心にありそうにないこと を知らないのは日本人だけではないかしらん、と思います。