祖父 瀧浪久男と堺愛育会についてのメモ 1

2021年9月13日

2015年12月に、父方の祖父である加藤源太郎の評伝を発見し、ここでデジタル文字起こししたんですよね。
■ 祖父 加藤源太郎の評伝書き写し (鐵鋼春秋 1980春季号より) https://katou.jp/?eid=504

(源太郎は現在、僕が4代目社長を務めているマルイチグループの創業者。これ↑2019年、丸一興産サイトを創った際にそのままコピペしました。 https://01kosan.com/story

 

ブログにも書いてますけど…「これは、きっと機会なんでしょう。」と思ったから源太郎の評伝を書写したんですが、もう一人の母方祖父である瀧浪久男の評伝については現物はあるものの、あとになって「こっちはまだ機会ではない」と思い、書き起こすのを止めてました。

 

瀧浪久男は1911年9月25日、現 和歌山県上富田町あたりのけっこうなお金持ちの家に生まれたそうですが、実父が誰かさんの連帯保証人になったとかで、中学校を進むころには大層な借金を抱えて進学もままならない状況に追い込まれ、無料で学び続けられる尋常師範学校(学校の先生になるための学校)に進学。
時代は長い太平洋戦争の時代に突入したころに教職につき… やがては視学官(旧制度で地方に置かれた教育行政官。 学事の視察や教員の監督を行った。)の任に着くも、敗戦後はGHQ主導の新しい教育制度運用のなかで「公職追放」の憂き目にあったそうです。止む無く起業するも、2度3度の事業失敗を繰り返した、と 母から聞きました。

 

そんな祖父は子どもも成人し、ちょうど僕が生れた頃(1967年)を前後して、福祉の道も選んでいます。今回、デジタル文字起こした生前の評伝は、祖父が初代会長を務めた堺愛育会の会報「陽の丘」第85号(1999年8月5日発行)に掲載された 同誌の編集 並 発行人の豊田英太郎氏(あすなろ授産所 二代目所長)による追悼文です。同じ会報の下部には豊田氏の顔写真も掲載されていました。

文中にある※百舌鳥養護学校とは、1968年4月 堺市立百舌鳥養護学校として、堺市立養護学校から分離開校された学校です。(2009年4月 堺市立百舌鳥支援学校に改称。 http://www.sakai.ed.jp/mozuyogo/

さて… この祖父が始めた堺愛育会とはなんなのか、次回は、この「陽の丘」創刊号(1973年4月24日発行)と共に綴りたいと思います。

 

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故 瀧浪久男先生 平成十一年(1999年)七月四日ご逝去 享年八十八才

亡くなる数日前に「近日中に退院し、授産所を訪問します。」とのお話しであった。
それが四日夕に、心筋梗塞を起こしご逝去されたとの報。取るものも取り会えずご自宅へ、穏やかに、おやすみなさっておられました。

瀧浪先生には、百舌鳥養護学校 ※ の開校当初からお世話になっておりました。
実業家でありながら、知的障害者の立場に立ってのご発言に、現場にいた我々は、小さくなり、いくら反省を重ねた事かわかりません。

人間尊重の精神がその根底にあり、会社ぐるみで二月の一ヶ月間、職場実習させていただきました。実習に行った彼等は、みるみるうちにたくましく成長し、各事業所に巣立ってゆきました。瀧浪さんが社長をしておられた冨士ボードにも毎年数人ずつ採用していただきました。そのうちで仕事のペースの遅い人で、ペンキの色に半日もかけていましたが、その出来栄えが抜群で、重宝されていました。又ある人は連結された乾燥機の中でトロッコの車輪がはずれる音を聞き分けすぐに手を打つ人、一人一人の個性を生かした対応をされました。 おかげで皆、ハリと希望を持って日々仕事に従事しておりました。
瀧浪先生が学校に寄贈された『自立』の碑の言葉は、それぞれの特性を生かし、自他をわきまえ、自分なりの力をフルに発揮し社会参加する事を教えているように思います。

一方我々教職員に的確なご指摘をされることもありました。戦前の和歌山県の視学官の片鱗を感じさせられたのは私だけでしょうが、恐縮したり、くってかかった事など、今思えば懐かしく思い起します。

昭和四十七年にあすなろ授産所の後援会(堺精神薄弱者愛育会 現在は堺愛育会)を設立するにあたり、会員の募集や役員の選定などについてもご尽力され、初代会長に就任されました。
愛育会の会長として、学校行事には欠かさず列席して下さいました。学校行事で瀧浪先生のお姿がないと落ち着きません。今年の卒業式を欠席されただけではないかと思います。
巣立つ一人一人を温かいまなざしで見守っておられるお姿が忘れられません。

平成十一年度の卒業式にも一つ席を開けてもらって、お待ちしたい気持ちで一杯です。ご冥福をお祈り申し上げます。