1989~90年、大阪から東京に引っ越した頃のことを二、三。 幕間
1970-80年代の吉本新喜劇の顔だった、原哲男さんが亡くなられました。
僕は1989年の秋に大阪を離れ、東京の下目黒に引っ越しました。22歳、大学4年生でした。
前年の秋からリョーマでは取締役となっていた僕でありましたが、、ダイヤルキューネットワークの新サービス、FAX Qネットセンターのサービス開発の責任者に抜擢され、東京が基盤となることが決まったのです。
’87-89年当時、僕は『原哲男の息子』というのが、呑み会のツカミでした。
原さんは吉本新喜劇の長年にわたる顔で、大阪では知らない人はいなかったほどでした。
新喜劇を知らんヘンコであっても、オリバーソースのおっさんは認知度100%だったのです。
だから東京に引っ越したら、誰も知らなくてびっくりしました。
まったくネタぐりになりません。
仕方ないので『小林克也の息子』に切り替えました。
それはそれで、結構うけたものですww。
改めて、大阪の偉大な おとん 原哲男さんに手を合わせます。
ところで余談ですけど、この東京に引っ越した1989年~90年のあたりは人生の分岐点でした。
東京に行くことを命じられたことは、とにかく僕自身には都合がよかったわけです。
なぜなら秋からほとんど大学にいけなくなることで、当時の僕の最大の課題であった『親の会社を継ぐのか、このまま仲間たちとベンチャーを続けるのか』 の結論を一年延ばすこと=わざと一年留年して結論を先延ばしにする、ことができる、と考えることができたのです。
既に6月には川鉄商事(現JFE商事)さんから、父親経由で内定をいただいていましたが、留年を理由にそれをお断りしよう、と。 ・・・すいません。
そして、この東京での経験と刺激が、僕を『家業を継がずに、親の期待に背き、東京でベンチャーをやっていくのだ』 という決意へといざなってくれました。
いま思い返しても、いまだにあのときほど、右に往くか、左に往くか、懊悩したことはありません。
岡本呻也さんの名著『あのバカにやらせてみよう』(文藝春秋 刊)にはこう脚色されていますね。
『リョーマから西山に続いて加藤を呼び寄せた。加藤は真田が去った後、リョーマの広告部門を無給で支えていたのだが、彼にはヤマト伝言FAXに対抗するQ2課金利用のファクシミリサービスの立ち上げが命ぜられた。』
僕は1989年秋に、東京に居を移して、はじめて、東京と大阪の明確な違いに気がつきました。
僕はそれまでは大阪から、東京を眺めていただけでした。
そして、対岸から観るだけではなにもわからないということにも気付けました。
当時、東京に活動の拠点を完全に移そうときめた背景も、別のエントリでまとめています。こちらも、よかったらご拝読ください。
■ 日本を出てシンガポールに行こう と決めたのは https://katou.jp/?eid=29