私も履歴書 38|iモード広告の萌芽と新市場。
2024年5月1日
98年2月、リョーマの同僚でありリクルートに就職した高橋信太郎さんの結婚式に呼ばれた行った東京プリンスホテルの大パーティ会場に・・・なんと!真田哲弥さんがいました。
3年・・・いやもっと空いていたかもしれません。
ベンチャー最初の師である真田さんのダイヤルキューネットワーク破綻以降の苦境の足跡については漏れ伝わってはいました。しかし、けっこうよくない噂も多かった、こともあって、恐縮ながら、年賀状すらお送りしない疎遠な状況となっていたのです。
久しぶりにお逢いした真田さんはお元気そうでした。
で、アクセスという企業の会社員をやっていました。ぎこちなく名刺交換などしてみたり、「しかし・・・真田さんが会社員て、世の中も変わったなぁ」とか思ったのものでした。
それから半年ほど経った8月初旬ごろ、唐突に真田さんからメールで連絡がありました。なんか僕の会社に来てくれるというのです。
引っ越したばかりの表参道駅前の真新しいオフィスにお招きして、僕は一生懸命に日広のこと、ビットバレーの企業たちへ提案している各種のネット広告や、当時はじめていたエンジェル投資について説明しました。
「そうか、加藤も一生懸命やってんねんなぁ・・・。」
「はい。頑張っています。」
「いやな、実はこないだの信太郎の結婚式で、久しぶりに会うた堀と岩井おるやろ、あいつらと来月起業することになったんや。」
「え!、堀さんと岩井さんて、BICグループの、ですか」
僕がダイヤルキューネットワークの前に営んでいた大阪のプロモーション会社リョーマ(もともと真田氏が創業)にて、毎年4月に発行していた大学サークル情報誌OMOLOGUEの競合誌を発行していたBICグループは、まさに同一趣旨のフリーマガジンを発行するド競合だった会社でした。堀さんと岩井さんはその団体のトップだったのです。
真田さんは、それから新会社サイバードにて取り組もうと計画している、携帯電話をつかった有料情報サービスについて説明をしてくれました。NTTドコモのそれは「iモード」という名前でした。真田さんは勤めているアクセスという会社で、そのiモードが動く携帯端末に載せる閲覧ソフトの開発と販売に取り組んでいた、というのです。
僕は新会社が取り組もうとしているビジネス領域にたいへん衝撃をうけました。
真田さんが目の前で説明してくれている其れは、インターネット接続という体は採っているものの、ビジネスの構造は、通信キャリアがサービス料金を回収する仕組み、即ちダイヤルQそのものだったから、です。
しかもそのiモードは、サービス受け手である利用者が携帯電話の利用者個人に特定できる、ことや一ヶ月いくらの固定料金で高額請求にはなり難い、などダイヤルQの欠点を補う優れた点がありました。
そう、真田さんは僕の状況を確認しに来てくれたのでした。そして、もし暇にしているのであれば、新会社サイバードにこないか、と思ってくれていたようです。しかし、僕は日広に仕事に忙殺されており、とてもサイバードにジョインできるような状況ではありません。なんらかのかたちで協力したい、と申し出て、その日はお別れしました。
そして、いずれにせよ、これは相当に面白いことになるぞ、と思ったのでした。
4ヶ月ほど経った98年末、僕のもとに、更にとんでもなく久しぶりの来客がありました。彼、椚座信さんは、僕がダイヤルキューネットワークの活動に専念しようとしたタイミングで、リョーマと営業を統合したCSEという販促会社の元社長さんでした。
椚座さんが、僕に持ってきた企画は、全国のサーファー向けスポットの天候情報の有料サービスでした。
「加藤君や真田君のやってるダイヤルキューネットワークでビジネスにでけへんかな。」
「椚座さん、ダイヤルキューネットワークはもう6年も前に破綻したんですわ。」
「えーそうなんかいな。ほな、あかんかな。」
「いや、真田さんが、ダイヤルQそっくりの仕組みで始まる携帯電話向けのiモードってのがはじまるので、そのコンテンツを探しています。それにピッタリだと思うので繋ぎますよ。」
99年2月、NTTドコモによる情報料金回収代行サービス、iモードが始まりました。そして椚座さんからの持ち込み企画「波伝説」は、サイバードの提供するコンテンツのドル箱となりました。
あっという間に、iモードはかつてのダイヤルQのように社会現象になりました。そして真田さんは大復活を遂げたのです。
その後も、真田さんからは、iモードの進化やビジネス生態系について何度か伺っていました。そして激化していく一方のサイバードのようなコンテンツプロバイダ間の競争のなかで、いかにユーザーを獲得していくのか、コンテンツへの誘導広告がカギになるだろうという確信を持つようになっていました。
広告の出稿需要は急増するに違いない。僕は100%子会社であるメディアレップドットコムでも、積極的にモバイル広告の仕入れの確保をしていこう、と考えていた矢先の2000年5月、NTTドコモと電通が、iモードメニューのなかで、公式の広告枠を管理するメディアレップD2C=ディーツーコミュニケーションズの設立を発表しました。新会社D2Cは、取引する広告会社にレギュレーションを設けていました。なんと業界団体であるJAAA日本広告業協会の会員であることを義務づけてきたのです。
僕は業界団体など入ったら負けだ、と思っていたのですが、一方で大躍進を遂げていた新種のネット広告会社であるサイバーエージェント、オプト、セプテーニなどは当然JAAAの会員ではありません。しかも、僕はメディアレップドットコムを営んでおり、自前のネット系広告会社への商流を築きつつありました。おっと、今度は日広がネット系広告会社への【廻し広告代理店】の役割を担える絶好の好機です。
「よし、なんとしてもJAAAに入ろう。」
7月、僕は創業からの数年間、成人向け雑誌を一生懸命売っていた頃に広告枠を廻していただいていた三光広告や日本廣業社、日本広告社、毎日広告社の諸先輩の各社をまわり、JAAA入会の御推薦を取り付けました。無論、ネット系の他社にはそんな芸当は出来ません。
以降の数年間、D2Cの管理する広告枠への商流に、ネット系では日広だけが入ることが出来たのです。日広はサイバードをはじめ、インデックス、ザッパラスなどの携帯公式サイト専業コンテンツプロバイダ(CP)の販促広告という新市場を掴みました。最盛期(04~05年)にはCPだけで年間で40社を超えるお取引へと広がりました。
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