祖父 瀧浪久男と堺愛育会についてのメモ 5

 

前回のブログにてご報告させていただきましたが、不肖加藤はあすなろ授産所を運営するNPO法人百舌鳥あすなろ会の理事の末席に就きました。

これまで拙ブログにて数度に亘って、母方の祖父 瀧浪久男が生前尽力したあすなろ授産所の揺籃期や後援組織としての堺愛育会の設立(と寄付金集め)から、僕自身のあすなろ授産所との出会いとECサイト「あすなろDEさをり」の寄付への経緯をご紹介してきました。

堺愛育会は昨年2022年、設立50周年を迎えました。理事に就かせて頂いたこの機に、記念小冊子に寄稿させていただきました。祖父に届くよう、ここにデジタル文字起こし(抜粋)を遺しておきます。

皆さま、今後とも 百舌鳥あすなろ会、そして堺愛育会を何卒宜しくお願いいたします。

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堺愛育会の50周年おめでとうございます。また斯様に記念誌への寄稿の誉れを頂戴したことに感謝申し上げます。

祖父瀧浪久男が初代会長を務めた堺愛育会(設立時:堺精神薄弱者愛育会)について深く理解したのは、恥ずかしながら、ここ10年のことです。遺品の中から保存されていた設立往時以来の書類や記録、堺愛育会の会報「陽の丘」のバックナンバーを通じてのことでした。

 

久男は1911年、現 和歌山県上富田町あたりのけっこうなお金持ちの家に生まれたそうですが、実父が誰かさんの連帯保証人になったとかで、中学校を進むころには大層な借金を抱えて進学もままならない状況に追い込まれ、無料で学び続けられる尋常師範学校(学校の先生になるための学校)に進学しています。

 

時代は長い太平洋戦争の時代に突入したころに教職につき… やがては視学官(旧制度で地方に置かれた教育行政官。 学事の視察や教員の監督を行った。)の任に着くも、敗戦後はGHQ主導の新しい教育制度運用のなかで「公職追放」の憂き目にあったそうです。止む無く起業するも、2度3度の事業失敗を繰り返した、と 母から聞きました。そんな祖父は子どもたちも成人し、ちょうど僕が生まれた頃に前後して、福祉の道も選んでいました。

久男は幼き日に教育の道を志高く目指したにも拘らず、新しい戦後の世に教育者として受け容れられることはありませんでした。そして慣れない商いでは悪戦苦闘の日々だったようです。そんななかでの百舌鳥養護学校への支援、あすなろ授産所の設立、そして支援団体としての堺愛育会の立ち上げ、篤志を募る活動は、久男にとっては【生きていく上での希望そのもの】であったことが生前の文章・資料から、よく伝わってきました。

 

2021年夏、私は久男が「陽の丘」に遺した幾つかの掌編を己の運営するブログに転載しつつ、故人の遺業について自分なりの総括を行いました。そして、 今こそ己が祖父への恩返しに努めんと、意を決し堺愛育会に入会申し込みを致しました。

 

入会後、現代表の渡邊真由美さんとお話しさせていただくなかで、現在はさをり織りを材料に使用した自主授産製品(授産所の皆さんが依頼に拠るものでなく、自ら能動的に作っている製品)を作っている、ということをご説明いただきました。そこで、先ずは得意な領域で得手を発揮できればと、さをり織り製品ネット通販の構築を行おう!と思い立ちご提案、半年かけてサイト「あすなろDEさをり」を自費にて制作、2022年正月に堺愛育会を通じて寄付させていただきました。

 

サイト制作の過程にて、2017年まであすなろ授産所が同じ敷地内にあった 堺市立百舌鳥支援学校にも訪問してきました。長い間、あすなろ授産所が根を下ろしていた地には、久男があすなろ授産所に寄贈した「自立の碑」がある!ということで其れを目視したかったのです。

!「自立」ありました。「陽の丘」と同じく…これはまさしく祖父の揮毫です。

 

写真は母 加藤佐和子(旧姓:瀧浪)と筆者