ヒトモノカネのハブとなったシンガポール。まさにASEANの中心に

 
現在のシンガポールにあたる場所は、
14世紀、スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国のトゥマシクという港町だったそうです。

シュリーヴィジャヤ王国が凋落した後は、ジャワのマジャパヒト王国の影響下におかれ、15世紀にシンガプーラという現在の名前の起源となった町名となりました。

16世紀には、マレー半島南端のジョホールのスルタン(王様)が支配下に治めていましたが、交通の要衝としての港に目をつけた英国のトーマス・ラッフルズ卿が、1819年~に本格的な港を建設しました。

そのすぐ後には周辺のペナンやマラッカと同様に、植民地としてイギリスの支配下になり、以後は、東南アジアの貿易の要衝港として、またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の拠点、貿易の拠点として当初の発展を果たしました。

海から海へわたる多くの貿易船における取引の要所、いまの言葉でいえば、『物流のハブ』として栄えていったということでしょう。
中国、インド、東南アジア近隣諸国、オーストラリア、そしてヨーロッパから届く様々なモノ、、、食糧、貴金属、調味料、宝飾品等の交換、そして給油の拠点であったシンガポールは、多くの国や地域で取引される通貨や金銀の交換の場としても発達していきました。

1941年、太平洋戦争が始まると、地理的要因から『大東亜共栄圏実現に向けた東南アジアの侵攻拠点』としてシンガポールを置いた日本軍は、英国軍を破り軍政下におきます。
そして戦争が終わるまでシンガポールは「昭南島」と名づけられ、昭南特別市となって日本の軍人が市長になりました。

1945年の日本の敗戦でイギリス支配に戻りますが、1963年マレーシア連邦がイギリスから独立した後に、シンガポールはマレーシアの一地域として編入されました。

ところが当時のマレーシアはマレー人優遇(ブミプトラ)政策であったため、住民の大半が華人のシンガポールではその政策は受け入れがたく、1965年に連邦から追い出されるようにして分離、独立を果たすこととなりました。いわゆる無血独立です。

初代首相に就任したリー・クアンユーはワンマン体制で都市国家の建設を目指し、国際空港の建設、関税の廃止、などで物流ハブ化を飛躍的に進めました。

物々交換や貿易の拠点から、巨額の商取引が行われる場所として発展していったことは(物流を伴わない)銀行、証券、資産運用、ファンド運営、投資信託、、などの業界もまたシンガポールに拠点をおく経緯へと繋がっていったのです。

その後、70年代以降のレバレッジ経済では、とくに金融=ファイナンシャル分野の職業に従事する高度人材こそが、世界的に『高給取り』のする仕事となってきました。

シンガポールは、そんな彼らファンドマネージャーやトレーダー、キャピタリスト、といったフィナンシャル分野での高度人材のみならず、世界のあらゆる業態における高度(すなわち高給取りの)人材が働く上において、所得税が安く、また外国人が安全に快適に過ごせる環境を、用意したのです。

そして、その成果として、今やシンガポールこそが、アジアにおいて最も高いスキルをもつ人材、いや【人財】を獲得できる国になったわけです。

経営の三要素は、ヒト・モノ・カネ。

シンガポールという国は、それらの要素を兼ね備える、企業活動のハブ・センターを明確に目指し行動し、その地位を確立した、といえるでしょう。