コーポレートサイトが出来ました。|家業:丸1グループのご紹介1
10ヶ月かけて、丸1グループのコーポレートサイト http://MARUICHI.GRoUP/ が完成しました。
丸1グループを、亡き弟から突然に承継したのは2017年5月8日。
過去の整理、そして現在の姿への変貌に3年半かけたといえると思います。
12歳、祖父(加藤源太郎:創業者)の葬儀の最前列で、喪主(加藤勝弘:二代目)の横にちょこんと腰掛けて、会葬の御礼でお一人お一人に首を垂れたあの日、僕ははっきりと家業を継ぐことを意識しました。
22歳、一年かけた懊悩の果てに僕は道を閉ざし、ベンチャーに挑むべく上京しました。
27歳、考えの浅い僕に替わって、その道を選んだ弟(加藤昌孝:三代目)の堂々たる選択に涙しました。僕が出来ることは彼のリーダーとしての決定を全て是とすることだけだ、という結論に至りました。
以来、長い歳月がありました。
2017年のその日まで、弟が指揮を執る家業とは努めて距離を取り続けてきました。経営状況や将来展望を知ることで、余計な口を挟みたくはなかったからです。
その間に、旧本店跡地と本社ビルの売却や、祖父から継いだ生家の売却、大きなリストラ、祖業である鉄鋼卸/形鋼の一次加工事業の同業他社への譲渡など、重要な転換期も迎えています。
そのたびに… 正直いうと、何度も喉まで出てきた言葉を抑え込むこともありました。
でもいちど己から道を外れた以上、父や弟の意思決定がいちばん良い結論なのだ、と飲み込んでました。
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僕には丸1グループは、京都大学を卒業後まっすぐに三菱商事に腰掛入社し…5年間の修行の末に、 家業に戻った弟:加藤昌孝の 生きてきた証としか思えません。
(もちろん会社とは、個人にとって”道具””手段”であり、”目的”ではないのですが。)
亡くなってから初めて、不肖の僕は過去30年に及ぶ… 決算書や議事録、日々の営業記録などの膨大な書類に目を通しました。
彼が生きていた間、家業のことはほとんど話しませんでしたが、それらの一文字一行に日々の奮闘の記録が残っていました。
22歳で承継の途を断った僕に、50歳にして御鉢が回ってきました。
この消去法の結論は、私たち一族にとって非常に哀しいことでした。できることならば、彼にこの先も長くリーダーであってほしかったからです。
しかしながら、己が家業を承継すると決めたからには
これまで祖父が、父が、弟が、身体に巻いてきたタスキを背骨にくくりつけて、その先に継がねばならない、と悟りました。
それこそが、この先の生きていく意味の大きな部分になるはずだ、と。
今日、ここにコーポレートサイトの公開を迎えるまで、取り組んできた新しいことがいくつもありました。
祖業である『鉄鋼卸/形鋼の一次加工事業』は2010年に譲渡しており、2017年の時点では 加工設備つきの営業倉庫が主業となっていました。
僕がひとりこの先やれるだけやっていくなら、それでよかったのです。三代目は長い彷徨の果てに、キャッシュフローが良く、シンプルで盤石な経営基盤を作ってきたからです。 (もしかしたら、彼自身、家業を先の世代に渡す気がなかったのかもしれません。)
でも、僕が先に繋げると決めた以上… 願わくば、彼の実子が大人になった時に、家業の承継が魅力的な選択肢にみえるように
いまいちど1967年4月に、東京営業所を構えた際に掲げたスローガン 『産興一丸』 の精神を高く掲げる業態を開発しよう、と取り組んできたのです。
僕は、この四文字を 『 組織一丸となって世界に通ず 新しい産業を興す。新しい雇用を、新しい経済を産みだす。 』 気概の咆哮だ、と解釈しました。
僕が従前から己の事業として、シンガポールで取り組んできた2つの会社の資本を増強し、マルイチグループの持株会社と位置付け、2年半かけて、資本構成の再構築を行いました。
祖父に、父に、弟に、誇れる
起業家精神を絶えず持ち続ける100年企業を目指して、丸1グループをここに再始動いたします。 http://MARUICHI.GRoUP/ 宜しくお願いします。