22歳の僕が書いた妄想人生年表を文字起こし。|加藤の人生設計 1989年10月27日

2022年2月10日に、実家にて母が掘り出してくれた書類群から偶然見つかったメモを文字起こしいたします。このメモは自分の50歳になるまでの妄想年表!で、89年10月27日という日付が入っています。
よくみると、この日取りが絶妙に微妙な時期で。これは翌1990年4月に新卒腰掛け入社が決まっていた川鉄商事に…すっとぼけて数単位足りずに計画留年することで【入社しない】と心に決めたタイミングで書いたものだと思われます。年表が翌90年4月の「留年」から始まっているからです。では何故、この時期に川鉄商事に行かない=父の引いた事業承継コースのレールをいきなり外れる、と決めたのか。

 

メモを書いた一ヶ月前:9月28日に、往時のビッグボスであった真田哲弥さんと玉置真理さんは東京でダイヤル・キュー・ネットワークを登記しています。そして設立およびダイヤルQサービス(情報料課金の電話サービス)の開始にあたって、真田さんは僕の勤めるリョーマの共同創業者で、この時期リョーマの社長だった西山裕之さんにも取締役としての参画を働きかけていたのです。
もちろん…リョーマ取締役だった僕も何度も東京に行き、行くたびにバージョンアップしていく事業構想を聞いていました。僕もまた真田さんの、玉置さんの語る事業アイデアに幼き胸をときめかせていたのです。
かたや己は内定の辞退というか、父親の引いていた 川鉄商事で修行=家業承継前提でお預かりコースに伸るか反るかということを、一年以上にわたり懊悩していました。
いま思い返しても人生最大に思い悩んだことはこのときの意思決定です。)
東京で今まさに始まろうとしているダイヤル・キュー・ネットワークはあまりにも面白かった…。続々と日々育つリョーマの後輩学生社員たちには凄い可能性を感じていた…。
そもそもは家業を継ぐつもりで、その準備のために入った関西学院ではありましたが、
リョーマの運営に夢中だった僕は、父に決めてこられた川鉄商事の内定者研修には何度か参加するものの、其れにはまるで面白味を感じず、
悩み苦しんだ挙句、この『90年4月新卒時に川鉄商事に行かない =留年して、リョーマ取締役を続けながら、東京でダイヤル・キュー・ネットワークにも参加する。そして腰掛けには行かないけれども、丸一興産(家業)には入社し、管理に登用してもらうのだ!』と何のコンセンサスもないままに、89年10月末には斯様なメモを書いていた、ということでしょう。要するにワクワクするほうを選択した直後に、咄嗟に妄想メモをまとめたのだと思います。 … こんなメモを書いたことは全く憶えていませんでしたが。
また同時に同じファイルから発掘されたメモには、1年半後の91年4月に大阪市西区江戸堀にあった丸一興産の社有ビルに、リョーマ本社、ダイヤル・キュー・ネットワーク大阪支社をテナントとして入居してもらおうと考えていたようです。(また両社に加藤個人として追加出資したかったようですなw)
実際にはメモを書いた4カ月後:90年2月に正式に単位未達による留年が決まり、川鉄商事に就職しないことが決まった段階で、家業後継の道はいったん完全になくなった ので、このメモは儚い自分勝手な妄想であったことが偲ばれます。

 

さて
この妄想年表によると、
一年前(88年10月)に取締役となっていたリョーマは、その後も順調に学生社員を育て続け、2005年にはOBが500名を突破し、2017年には30周年を迎えることになってます。
実際のところは1992年10月に経営破綻して会社は影も形も無くなりました。  (でも… 2017年には30周年の催しを開催し、今年6月には35周年の祝宴はします。)
で一年後(90年9月)に僕はリョーマの常勤を抜け上京。ダイヤル・キュー・ネットワークに不退転の決意で合流するも…現実の世界ではわずか8か月後の翌4月末に破綻しています。が、この妄想年表では、92年には海外進出、95年には年商100億円を突破するという設定になってます。わろた。
そして父の意向に背き、縁故内定の川鉄商事を4カ月後にブッチするにも拘らず、この妄想年表ではそのうえで大学卒業と同時に家業である丸一興産に入社!…し、マルイチグループ各社の役員を兼務、97年には役員に、01年には社長に、17年に会長になることになってます。しかも父は03年に65で引退させています。

 

かたやその後の現実は、僕は家業には入らず、92年に東京で広告会社:日広を起業。その後に弟:加藤昌孝が継がなかった僕に代わり、事業承継の道を選びます。92年に三菱商事に縁故入社した弟は5年の勤務を経て、97年に丸一興産に入社。その後、取締役を経て、03年に社長に就いてます。 (驚いたことに父は同03年に65で引退してます。)
17年5月、弟が急逝したことで、唐突に丸一興産を含むマルイチグループ3社の社長を務めることになりました。不思議なことに2022年現在、マルイチグループの足元と近未来に時間とエネルギーを費やしています。

 

僕が22のときに、50になるまでの妄想人生年表を書いていたことを、今になって知って驚きを隠せません。が、もうちょいで55の初老が帰結している現況と、22歳の頃の未来予想図が(到る轍はまったく異なりますが)ちょいちょい相似してることを珍妙に感じながら、文字起こししてみました。17の時に32の僕にメッセージを書いてたり、51歳の際に 家業承継したのを機に64までに甥に継ごうと決めたりしてきたのですけど…22でこんな妄想してたんですな。照れくさいですが、若い皆様のご参考になれば。
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加藤の人生設計 1989年10月27日
丸一を物産のような総合商社に
リョーマグループを平成最大の企業群に

90.4 23才  留年。グループ化へ向けて多角事業化を推進。リョーマ社員15名

91.4 24才 大学卒業と同時に丸一興産入社。併せてグループ各社の役員を兼任。
92.4 25才 JC入会。Q-NET 海外進出。リョーマ東京本格進出。
93.4 26才 不動産事業・出版事業開始。
94.4 27才 グループ各社 丸一ビル入居。グループ内社長5名
95.4 28才 Q-NET(仮)年商100億突破。リョーマOB200名を突破。
96.4 29才 グループの東京本社落成。← 丸一の東京再進出。
97.4 30才 丸一役員就任。総合化着手(9:1) リョーマ10年。グループ内社長10名
98.4 31才 リョーマグループに丸一参加。 → 丸一50年
99.4 32才 JC会長に就任。グループ海外進出事業着手。
00.4 33才 丸一売上比率(7:3)
01.4 34才 丸一社長就任。グループ内より東証一部上場。 グループ内社長20名
02.4 35才
03.4 36才 丸一大証二部上場。親父引退(65才)。売上比率(5:5)
04.4 37才
05.4 38才  全国特約店組合、会長就任。リョーマOB500名突破。
06.4 39才  丸一売上比率(3:7)
07.4 40才 丸一大証一部上場。(グループ内3社目標) リョーマ20年。グループ内社長35名。
08.4 41才 グループのシンボリックビル RYOZANPAKU BLD.落成。丸一60年。
09.4 42才
10.4 43才グループ多国籍化(現地法人5)
11.4 44才 丸一東証一部上場。
12.4 45才 丸一売上比率(1:9 完全総合化)  グループ内社長70名
13.4 46才
14.4 47才
15.4 48才
16.4 49才
17.4 50才 丸一会長就任。→同族外を社長に。グループ全体会議スタッフへ。リョーマ30年 グループ内社長108名