誰もがメディアを持てる=情報発信できる時代に
加藤がはじめてインターネットを見て触れたときって95年10月なんですが、「それ」が広告の世界にものすごく大きな構造変革を及ぼすと気づくまでに1年近く掛かりました。
日本国の代表である村山富市さん(ときの内閣総理大臣)と、そのへんの名も無きおばちゃん がまったく同じ文法で標題(URL)を名乗っている 均しさ
天下の読売新聞と、田舎の壁新聞 がユーザープロセスはほぼ同じ(URLを打つ、ブックマークを開く)で読者に対峙し情報を伝達している 等しさ
気づいたとき、耳から脳髄が出るほど興奮したことを昨日の事のように記憶しています。
日本は世界大戦後の新しい憲法で『表現の自由』が認められていました。
しかしながら 少し乱暴な表現だけど、インターネットが登場する前は、日本においては情報の発信手は数社しかありませんでした。数社の新聞社と系列化されたテレビ局が言論を束ねていました。
それらメディアが取り上げなかったら、どんな事件も「なかったこと」にできる状態だったといえるでしょう。
それまで1億2000万人の日本国民は、それら言論機関が形成するコモンセンスや「事実」のみを大方の趨勢や世論として受け止めていたんですね。
実際に
私たち小市民が思うことを手元で表現できても、それをより多くの人に情報として発信するためには『マス メディア』の力が必要でした。
それらは 主張そして事実を伝播するための必要不可欠なもの だったのです。
マス四媒体といわれる
テレビ放送・ラジオ放送 は 国からの許諾による電波帯域の割当を受けなければ、自前では運営できません。(今もそうです)
新聞・雑誌 も ミニコミ規模であれば自前で勝手に発行は可能ですが、より多くの人々の目に触れるためには 大手の新聞社・雑誌社を経て記事として紹介される必要がありました。
故に、一方の情報の受け手としての我々に提示されていた、入手可能な情報媒体の種類自体は今に比べて極めて少なかったのです。
それを インターネットができて ねこそぎ 変えてしまった。
(電話の利権が割り当てられていない人でも)
誰でも均しく思うことを表現できるようになった。
(地元では民放が一局とNHK、新聞は読売だけの人でも)
誰でも等しく情報を比べ、選ぶことができるようになった。
上海に行くようになって、びっくりしたのが(ある意味フツーなんですが)中国ではホームページで商売するには許可が必要なんですね、当局の。また広告をホームページに貼ろうと思ったら広告業の許可が必要なんですよ、当局の。
日本もネット以前は事実上ものすごく高い参入障壁があったわけだから、然程変わんなかったんだよな、とか思っています。それが、いまは誰でも(↑加藤でも)地球中の人を対象に広告を見せ収入を得ることが出来るのです。
徳間の社員だった頃、PCM音楽放送という 特殊なラジオがないと聴くことが出来ないラジオ放送局の仕事をしました。
最初は新しいメディアの登場に胸ときめきましたが、やっていくうちにそもそも放送メディアというものは、視聴する≒参加する受信機が普及してない と お話にもならないということを痛感しました。
どんないい番組を企画しても、聴くことが出来る人がほとんどいなかったのです。
だからインターネットにはタマゲました。
こりゃイケる。受信する仕組み・端末が既に普及しているぞ。PCM放送とは違う。データ放送ともハイビジョンとも違う。(もちろんモバイル放送とも違う)
また新聞は配達網が、雑誌は取次が、それぞれ新規参入が困難なことを示す関所としてそびえていました。彼らが扱ってくれなければ売るチャンスすら得られなかったのです。
でもネットを使えば、配達コスト無料で、印刷コスト無料で、新聞や雑誌を作り配布することが可能になりました。ブラボー。
去年CNETに書いたコラムでも、今回と重複することを書いたのですけど、ほんとに出井伸之さんのおっしゃられたとおり「インターネットは隕石」だったんですよ。生態系変えちゃったんです。(おかげで広告業も生態系変わりました)
その結果、それまで
広告主 数 が圧倒的に 広告載せる媒体 数に比べて多かったんですけど、
いまは
広告載せる媒体 数 が 超ケタ違いに 広告主 数 に比べて多くなりました。
だから広告売上が落ちてるメディアの皆さま、世の中不況なんだな、やっぱサブプライムの影響かな、とか懊悩するもいいですが、一方そのへんの加藤だって広告媒体できちゃうほど、構造が変わっていることにこそ、刮目する必要があるのではないでしょうか。