挑戦者よ、狂気の時代の共犯者になろう。
今日、大好きなちきりん姫のブログを読んで驚いた。
僕はここで出てくる「あの時の金融業界を知らない」
まさに同時代を疾走していたのに、微塵も解らない。いや知っている筈だけど、見えていた景色が全く違う。
1997年は、僕の半生の中でも、最もあっという間に過ぎ去った、超ポジティブな狂い咲きの年だった。この年、僕は30歳を迎えた。
おそらく生まれて今日まで、いちばん酒量が多かった年=呑みに行った夜の多かった年のはずだ。睡眠時間も44年でいちばん短かっただろう。平日は毎日3~4時間程度しか床についてなかった。これこそ狂気だ。
僕は前年96年に、数年続いてたココロの苦界から解脱していた。
創業からの数年間、商売は順調だったけど、一方でモヤモヤとアタマにあった『このまま続けていていいのか』という迷いが、遂に一切なくなっていた。
…儲かってはいた。だけど、ツーショットダイヤルの顧客の数は決まっていた。反響が見込める広告を載せられる雑誌の枠も限界に到達していた。
だから、社員数も増やす=会社も大きくする意味もなかった。
ところが突如、インターネットに出くわして、考えが180度変わった。
そして
それまでのツーショットダイヤル専門の雑誌広告会社から、
新時代を拓く=インターネット時代に必要とされる 『新しい広告会社』を目指す。
という、進むべき一本の道をはっきりと見い出すことができていた。
もう疾るしかない。
97年。ようやくピカピカの舞台を見出すことが出来たあの頃の僕は、まるで直滑降しかできない暴走スキーヤーのようだった。
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ところが
97年という年は、ちきりん女史、そして『大蔵省(当時)も、日銀も、日本のすべての金融機関も、完全にパニック』の年だったようだ。
そういわれてみれば、
三洋証券が、拓銀が、山一証券がクラッシュした年だった。のか
あら、実は97年って
アジア通貨危機の年だった。な とか。
そんな風景は、今になってトレースはできるものの、当時はまったく自分の日々の生活や仕事と重なっていなかったな。
しかし、考えてみれば、
なんであの97年、泡沫広告会社に過ぎなかった日広=おいらが激しく伸びれたのか、このちきりんの記憶と、僕自身の体験の相関には必然性がある、ということに気付いた。
そう。ベンチャーが伸びることが出来るタイミングは、既存の秩序が大きく崩れるときだ。ひざカックンの間髪を縫える時だ。いま改めて年表を見れば、当時のヤフーの上場なんて、まさにソレだ。
半ばノールールのとき、あるいは、あまりにカオスで社会全体のガバナンスが崩れているタイミングこそが好機なのだ。
◆ ◆ ◆
間もなく、稀代の変人宰相だった菅直人氏が首相の座を降り、新しい総理が決まる。僕は菅直人氏は前から嫌いだ。支持しない。
が、このタイミングでの退任は実に残念だ。そしてこの後はもっとろくな事にならないと思う。この方の仰るとおり『誰がなったとしても菅直人を上回ることはないだろう。』とみているからだ。
そしてこの無秩序でデタラメな社会は、次の衆議院選挙まであと2年は続くだろう。日本という船にとっても逆風だ。そこかしこで破綻もありそう。
裏をかえせば、ここからの2年弱こそ、既得権益層やご老人衆にとっての本当のパニックタイムなのかもしれない。
それは守る者の少ない若者=挑戦者にとっては絶好のチャンスとも成り得る、のだ。
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<96年12月~97年 今になって気付いた、僕にとっての年表>
・1996年
12月1日 ハイパーネット、無料プロバイダサービス ハイパーシステムを稼働
12月2日 デジタルアドバタイジングコンソーシアム設立
・1997年
4月1日 消費税率引き上げ(3%→5%)
4月7日 加藤は30歳に。
7月1日 香港がイギリスから中国に返還
7月2日 タイバーツの管理フロート制移行を発表。1ドル24.5バーツから29バーツに切り下げ
(アジア通貨危機)
7月14日 国際通貨基金がフィリピンに11億ドルの支援を実施。(アジア通貨危機)
10月8日 インドネシア政府が国際通貨基金の支援を仰ぐことを決定 (アジア通貨危機)
11月3日 三洋証券 会社更生法申請
11月4日 ヤフー 店頭(現・ジャスダック)公開
11月15日 北海道拓殖銀行 破綻
11月24日 山一証券 自主廃業(負債;3兆5000億円)
12月4日 国際通貨基金が、韓国に対し210億ドルの緊急ローンを実施。(アジア通貨危機)
12月24日 ハイパーネット 負債総額37億円で自己破産