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私も履歴書  26|上京。そして世界初サービスのローンチ。 

 

 

1989年10月1日、僕はダイヤルキューネットワークで働くことになり、下目黒に建ったばかりのレオパレスに引っ越しました。
この日からアパート全4室とも会社ですべて借り上げです。毎日、皆してワンボックスの社用車で、恵比寿の会社に通うという段取りでした。

かたや大阪で営んでいた販促受託や運転免許合宿斡旋の会社リョーマはその頃20名の大所帯、社会人の社員も数名いるほどでした。僕は前年からは取締役にも就いてました。お仕事も、店舗のオープニングプロモーション、大広さんの下請けやリクルートさんの仕事などそれなりに取れていました。その頃の僕はそうそう、ちょうど井筒和幸監督の新作「東方見聞録」の製作資金集めを断念したばかりでした。、、、にもかかわらず急遽、9月に入ってから、東京に居を移すことに決まったのです。
僕は22歳、西宮の関西学院大学の三回生。で、東京に引っ越し。普通に狂っています。周りがみな異常者だったから、その尋常でない選択に当時は疑問を抱かなかったんですな。

しかしこのときは、さすがに親が詰問してきたんです。そりゃそうだ、って思いました。実家は、祖父の代から50年近く続いてる鋼材特約店で僕は長男の長男の三代目でしたから。

 

ですので、東京へバイトに出て行くなら、、まぁつまり親にはダイヤルーキューネットワークには遊びの延長に見えていたようで、、上京の前にちゃんと就職させようと思ってたようで、いまのJFE商事さん、当時の川鉄商事への腰かけ入社の内定が決まったのです。そういったお膳立てをされたのですが、私はサラリと内定を戴いて東京へ引っ越しました。

 

リョーマの社長だった西山さんも、既に東京でのダイヤルキューネットワークの仕事で手一杯だったところで、僕にも特命案件が降ってきたのです。ミッションは京都の開発会社シスネットさんとともに、新サービス「FAX Qネットセンター」を開発し、可及的速やかにサービスを開始する、という件でした。


既にダイヤルキューネットワークが日本ではじめてダイヤルQ2を利用した総合型情報サービスを開始して10ヶ月が経過していました。若い方はご存知ないかもしれませんが、同社がサービスの提供に利用したダイヤルQ2という仕組みは、当時NTTが展開しはじめていた情報料金課金回収代行サービス。0990ではじまる番組番号に電話すると、ユーザーに通信料金以外に情報料金を課金し、その回収をNTTが代行する、というわけです。

ダイヤルキューネットワークの主力サービスだったQネットセンターとは、ユーザーにダイヤルQ2の代表電話番号にまずかけてもらい、その後4桁の番組番号を入力すると音声にて番組が聴けたり、その番組提供者にメッセージが送れたりする、後の言葉でいうポータルでした。そのFAX版サービスを開発し運用するというのが使命。

システムの開発はシスネットさんにお願いしていたので、担当となった僕と、同じく大阪からきた内田くん(リョーマの後輩)は番組の内容を考え、制作するのが主な仕事でした。A4ぺら一枚にいろんな情報をまとめるのです。渋谷終電・始発時間表とか、映画の時間割とか、ラブホテルマップとか、そういうのを作りましたねぇ。ユーザーはFAX Qネットセンターの代表番号にコールし、番組番号を入力すると紙一枚をQ2回線経由で受け取って100円くらい情報料金がかかる格好でした。

なぜ一刻もはやくFAX Qネットセンターをローンチしなくてはならなかったのか。
それは「日本初 世界初」へのコダワリでした。既に12月からのヤマト運輸による競合事業「伝言FAX」の新規参入の情報が漏れ伝わっていたからです。同社は運送事業からの多角化を狙い「伝言FAX」というブランド名にてダイヤルQ2事業を行う、ということでした。更に都内近郊のコンビニを中心に5000台!超のオリジナルFAX機 クロネコFAXを設置する、という企画書が出回ってしました。


これはダイヤルQ2というNTTによる課金代行サービスの幅広い認知普及が拡がる大好機ですし、ヤマト運輸よりも一日でもはやくFAX Qネットセンター事業を開始できれば、世間やマスコミの耳目が集められるはず...。そう見込み、アクセルを踏んだのでした。12月初旬開業の至上命題。あと2ヶ月しかない、という状況で下目黒と恵比寿、そして番組情報の編集部をおいた三田を往復する、上京いきなりギリギリとなりました。

 

が、内田くんらとシスネットの驚異的な頑張りにより、なんとか先方のサービス開始記者会見の一日前に(笑)FAX Qネットセンターも大手報道機関の記者さんを集めた会見とサービスのデモンストレーションを行うことができました。
その結果、直後の伝言FAX開業の大々的な報道にて、「その他にFAX Qネットセンターもある」といったオコボレ記事を多数獲得できたのでした。ベンチャーらしいでしょ。
さて翌1990年。四回生の履修登録だけしに、大阪に帰ったりはしてましたが、春以降は部署異動となり、新設の事業開発室や広告部の勤務となりました。

 

毎日朝から深夜まで下目黒の寝床と恵比寿のダイヤルキューネットワークを往復する日々でしたが、きわめて刺激的でした。とにかくみんな若いのでアホみたいに働く。寝なくても大丈夫。社内は忙しすぎて鬼の形相で日々パニックでした。日が暮れても日付が変わっても目の前の仕事は終わりません。で深夜2時ごろになると、きまって真田さんや西山さんなどの役員が「よっしゃ飲みに行こう」と。で恵比寿駅前や西麻布に繰り出す。そして翌朝からまた仕事という日々・・・。
8月には、遂に大阪でQネットセンターを開業。もちろんリョーマのメンバーが担当しました。続いて名古屋、福岡、札幌にもオープン。

 

各拠点の担当になったダイヤルキューネットワークのメンバーは、事務所探しから支店勤務の事務職の面接採用、Qネットセンターの番組企画や営業から、伝言ボーイ(男女別のオープン型伝言ダイヤル)の広告物配布、更に自分で事務所のそとにある電柱をよじ登り、事務所まで電話回線を引っ張り込む特引きといわれる工事まで自分でやっていました。そんな沸騰するような日々の中で、僕はこのまま東京に残ろう。家業は継がない。


という人生最大の決断をしたのです。もう、このままやりきるしかない。

※ 後日談ですがFAX Qネットセンターは、のちの徳間インテリジェンスネットワークではコア事業に格上げされました。また紙の新聞の発行を休刊した東京タイムス(徳間グループ会社)がこの技術を利用し東タイFAX新聞として後年発行を続けたのも懐かしい思い出です。
 

Posted by 加藤順彦ポール | comments(0) trackbacks(0)
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