傘寿おめでとう。母の青春記の書き写し。
公式サイトの沿革によれば、大谷女子専門学校が大谷女子短期大学となったのは、1950年の学制改革が故であったとある。このタイミングで、従来の家政科、被服科のほかに英語科が新設されている。
その後、2006年に男女共学制となった大阪大谷大学の短期大学部という位置付けに変遷したが、2012年度を以て、短期大学部は終了の砌となったようだ。
母:加藤佐和子(旧姓:滝浪 /1941年6月生まれ)は大阪は堺の三国ヶ丘高校という地域一の進学校を卒業した。そして祖父の「女子が4年制大学にいくなんて」という…その時代ならでは思考の犠牲となり、大谷女子短期大学英語科であれば進学してもよい、という選択肢だけがあったらしい。
さて
その在学時の恩師である飯田順さん(1957年4月~1966年3月 英語科教授として在職)さんが亡くなられた折に制作されたという追悼文集(1978年11月発行)を、先日「傘寿」を迎えた母から見せてもらった。30名近くの教え子が飯田先生との御縁や逸話を書きのこしている、その文集に母もまた寄稿していた。
其れは、母の大谷女子短期大学英語科での18か月の学生生活→ そしてカナダ/モントリールでの2年弱の留学生活(その間の2度のサマーシーズンのカナダ、アメリカ、そしてオランダなどのヨーロッパ旅行)、帰国早々からの同英語科での助手生活、とざっと5年4か月に渡る… 充実した学生生活についての記録で。 まさに翌春(1967年4月)僕が生れる前年夏までの5年間のことだった。とても面白く読んだ。
デジタル化して後世に遺しておきたい、と思い立ち、いまPCを叩いている。
おかあさん、改めて80歳おめでとう。親父や弟のぶんまで元気で長生きしてください。
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飯田先生と私の青春の五年間
思えば、早、十七年前のことになりますが、私には、昨日のことのように、はっきりと、思い出されます。その時の激しい胸の高鳴りも、まだ、聞えるような……。
昭和36年(1961年)五月四日の朝、短大の二年生になったばかりの春のことでしたが、いつものように講堂での朝礼に出ておりますと、「朝礼が終わったら、ちょっと来てください。」と飯田先生から呼び出しがありました。
何のために呼び出されたのか、見当もつかず、不審に思いながら、先生のもとを伺いますと、「カナダのモントリオールへの留学の話が持ち上がっています。あなたは、神経の太さと適応力、健康を持ち合わせているので、ノイローゼにならないで、やれると思う。このお話をお受けするかどうか、よくご両親と相談して、返事を下さい。」との事でした。
その時は、どうして、そのようなお話が持上がったのか、問い返すことも思い浮かばず、その日の授業は、まるで夢うつつ、少しも頭には入っていなかったでしょう。とにかく、早く家に帰って、父母にこのことを話さなければ、の一心で、宙をも飛ぶような気持で、家に帰ったのです。
もし、この留学の話が現実のものとなれば、まさに、私の青春の日の夢が実現するのでした。
中学校に入り、初めて英語に接したのですが、その時から、なぜかこの日本語と大変異なる言葉に興味がわき、惹き込まれていったのでした。一つには、英語を自由に読み書き、又話せるようになれば、自分のまだ知らない国々の人と話し合える。考え方を知ることが出来る。そうすることで新しい世界がどんどん開けていくような気がしたのです。英語に限らず、フランス語でもスペイン語でも中国語でも、知っている言葉は多ければ多いほどいいと思うのですが、まず手始めは英語です。中学時代は、幸いなことに、近くに貿易商の方が住んでおられ、夜、お宅にお邪魔しては、いろいろ教えていただきました。又、日曜日は必ず教会に行きました。スウェーデンから来られた宣教師の方が、英語で聖書の話をしてくれたからです。
短大に入ってからはESSクラブの活動で走り回り、他校とのジョイントミーティングや、夏休み中の強化合宿キャンプ、又個人では、YWCAの通訳養成講座を受けるなど、手当たり次第にやっていました。が、この辺で何かを足場にして大きく飛躍してみたい、と思っていた矢先に、夢のようなお話を聞いたのです。日本語を話しても通じない国に行けるなんて、英語をマスターするうえでどんなに効果的なことでしょう。今まで、七年間やってきたことをフルに生かして、どれだけやれるか挑戦してみたい。私の胸は早くも高鳴りました。
私のはやる気持に反して父は、なかなかいい返事をくれませんでした。その当時は、まだ、”留学のつもりで渡米したが、意に反して堕落してしまった”というような話が、特に女子の場合はよく聞かれたからだと思います。で、その点、よく伺ってみますと、このお話は、左藤義詮先生(当時、大阪府知事) がアメリカ合衆国及びカナダを訪問された際、モントリオールに住む親日家のサンギネ氏という方が、日加親善の意を込めて、日本からの学生を一人世話したいと、申し出て下さっているとのことで、モントリオールでの生活は全面的に保証されている、とのことでした。
左藤義詮先生が間に入って下さってのお話であり、又、サンギネ氏という方が立派な人物である、と聞いて、父も安心したのでしょうか、「じゃ、行かせていただくことにしたら。」 と、やっと、賛成してくれたのでした。私はもうそれだけで有頂天になっていましたが、実際大変なのはそれからでした。この何もわからぬ、健康だけがとりえの女の子を、モントリオールの大学に入れる為に、飯田先生は、ほんとうに自分の事のように、多くの時間を割き、御指導下さったのでした。
モントリオールはケベック州に属し、 そこは、フランス系カナダ人が、多く住んでいるところで、サンギネ氏もその一人でしたが、大学もフランス語で授業が行われているモントリオール大学と、英語で授業が行われているマギル大学及びサー・ジョージ・ウイリアムズ大学(土地の人々はS.G.W.U.と略して呼んでいました。)の3つがありました。調べた結果、YMCAの創業者であるイギリスのジョージ・ウィリアムズの名をとったサー・ジョージ・ウイリアムズ大学が適当ということになりましたが、正式な入学許可がなければ長期滞在のビザの手続きが出来ないということで、とにかく入学許可をもらうことが先決でした。大学の方から、私の英語力を試すため、作文を書いて送り返すようにという要請があり、又、推薦文を書いていただいたりして、何回もの手紙の往復があった後、やっと大学から入学OK!の通知をもらうことが出来ました。全て飯田先生のおかげです。
同じ入学するなら、九月十四日の登録日(入学手続きをする日)に間に合うように、ということで、パスポート、ビザの手続きに走り回りましたが、入学許可の通知を得るのに、随分時間がかかり、九月十四日まで残された日数はわずかでした。その間、大谷短大夏休みの行事として、毎年恒例の北海道旅行がありました。でも、私の心はカナダに飛んでしまい、九月十四日までにしなければならない事が山ほどあるように思え、とても旅行に行く気にはなれず、飯田先生にそのように申し出ましたところ、「日本のことをよく知らないで、外国に行っても、だめなのよ。その意味でも、北海道をよく見てらっしゃい。」と、言われたのでした。このお言葉は、あとあと、「ほんとうに、おっしゃる通りだった。」と、何度もうなづくことがありました。
いよいよ九月十三日羽田発の飛行機の切符が取れました。当時はまだアンカレッジで給油後、バンクーバーで一泊、翌朝、又飛行機に乗りついで、モントリオール着という時間のかかる旅でしたが、日付変更線を越えていくため、九月十三日の夕方にモントリオールに着くということになるのでした。十四日の登録日にはどうやら間に合います。でも、切符が取れているのに、まだビザはおりておらず、九月十二日に東京で、ということになっておりました。
九月十一日の夜、大阪駅で、飯田先生はじめ、短大の諸先生方、クラスメイト、友人、親戚の人人など、多くの人たちに見送っていただいて、夜行列車に乗ったのでした。新幹線はまだありませんでしたから。先生は出発に際し、私にこう言ってくださったのでした。「 Take it easy! (のんきにに構えて) Good luck! (幸運を祈ります)」 この表現は英語を話す人々のあいだでは、日常、頻繁に使われているようですが、その時の私… ”選ばれて行かせていただくのだ。失敗は許されないのだ” と、一人で思い、肩には責任感がずっしりと重く、ともすれば、カチンカチンになろうとしていた私… には、どんな激励の言葉よりも嬉しく思われたのでした。
モントリオールで無事一年が過ぎた夏休みに、当時短大主事でいらっしゃった高岡先生が、ロンドンでの学会の帰途、立ち寄ってくださり、「帰国後は短大で手伝ってみませんか。考えてみてください。」と言われたのでした。
翌、昭和三十八年(1963年)五月三十一日、どうやら、大学の二年課程修了の証書をいただくことが出来ました。私は、そのあと、かねてから計画を練っていたヨーロッパやアメリカ東部への旅行に立ち、大阪へは八月に、帰ってまいりました。すぐに、飯田先生より、当時ずっと顧問をしていらっしゃったESS部の夏休み中の合宿に参加するようお電話がありました。
たしか、箕面の勝尾寺だったと思いますが、「みんなに、留学中のことを、英語で話して下さい。」と言われて、その時は、苦もなく、英語の表現が、どんどん口をついて出てきたのは、二年の滞加のあとでは当然のことですが、今となっては懐かしい思い出です。
九月から正式に短大の英語科の助手にしていただき、飯田先生のご指導を、より一層うけることになりました。私に与えられた仕事は、主にLL(Language Laboratory)教室に関するものでした。LL機器を使っての授業は、十五年前は、まだ、一般的でなく、ごく限られた学校でのみ、取り入れられていたように思います。
大谷短大英語科にも、LL教室が作られることになったのですが、まだどのような機器を入れられるのかも、決まっていない段階でしたので、既にLL教室を使って授業をしている学校の設備や、授業の進め方など、いろいろ見せていただきました。機器はビクターのものに決まり、教材用のテープも徐々に増えていきました。四十年(1965年)四月から、ようやく、正規の授業に組み込まれることになるのですが、そこに到るまで、大阪市内はもとより、京都、神戸、和歌山、名古屋、東京、福岡など、LL研究会への参加をかねて他校の設備、授業を見学させていただきました。それというのも、飯田先生の強力な後押しがあったからだと思います。
ようやくLL教室が軌道に乗ってきた四十一年四月、富田林に大谷女子大学が新設され、飯田先生はそちらに移ってしまわれ、短大のほうは非常勤になられたのでした。やっと形を整えてきたLL教室をもう少し見守ってほしかったと思いましたが、私もその後まもなくの七月、婚家先の事情で短大を辞めることになり、LL教室から遠ざかってしまいましたが、十数年を経た今日、大谷短大のLL教室が立派に運営されていると聞き、飯田先生の当時のお気持ちが受け継がれているようで、ほんとうに嬉しく思います。
了
<サー・ジョージ・ウィリアムズ大学は1974年にLoyola Collegeと合併し、コンコルディア大学となり、現在に至っている。文中の年号は全て昭和だったが、西暦を後ろにいれた。>