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SingaLife No.176にインタビューが掲載されました。(前編)

 

在星邦人向け情報誌最大手の『SingaLife』No.176(2019年9月5日号)及びNo.177に、同誌をメディアパートナーとして開催される ホリエモン祭inシンガポール(2019年10月12日:於 マリナベイサンズ)の登壇者として不肖加藤のリレーインタビューが2回に渡って紹介されました。このエントリでは、その前編の内容を『SingaLife』様のご厚意により、転載させていただきます。

 

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–––シンガポール在住の実業家としてご活躍の加藤さんですが、これまでのプロフィールについてご紹介を頂いてもよろしいでしょうか?

 

はい。まずは最初の仕事として、92年に表参道で雑誌広告の会社をスタートしました。その後、95年からインターネットが本格的に日本で使われるようになりまして、インターネットの革新性に感動しました。それまでメインで手がけていた雑誌広告も調子は良かったのですが、電通の存在があり、序列があって、その他大勢の中でしかなかったのです。どこまでいっても限界があることを感じ、仕事はうまくいってはいるものの、モヤモヤしたものがありました。当時、これからインターネットの時代が来るなと確信し、ピボットしました。

 

––– 加藤さんが起業をされたのはおいくつの頃ですか?

 

19歳の頃から、学生起業のメンバーのひとりとして、既に仕事を始めていました。当時、僕を可愛がってくれた先輩がいたんですね(笑)。そこで6年間仕事をして、25歳で、日広という雑誌広告の会社を設立しました。

 

–––その風潮の中で、どのように行動されていましたか?

 

Yahoo! Japanがサービスを始めた頃、インターネット接続入門誌が凄く売れていました。アスキーやインプレスが入門書を月刊で出し始めた頃です。その頃、当時のinterQ (現:GMOインターネット)というプロバイダの広告を担当してたこともあり、ビット・バレー(渋谷六本木で起業する人たち)の初期の人たちとも深く関係することになりました。大体20代後半から30代前半の頃ですね。そこの集まりに参加してれば広告主が見つかるのと、自分と同じ世代のもっと若い人たちと知り合えました。

 

そういう文脈の中で、インテリジェンスをお辞めになった藤田晋さんがサイバーエージェントを始めました。同社が開発したクリックインカムというメールマガジン広告を日広も代理店として売らせて貰いました。そのシステム開発をしていたのがオン・ザ・エッヂ社長の堀江貴文さんだったのです。出会いはその頃に遡りますね。

 

–––堀江さんとのおつきあいは長いのですね。今回、10月12日にシンガポールで行われる「ホリエモン祭」で加藤さんは対談をされるそうですね。

 

はい。最初はサイバーエージェントを通した間接的な取引でしたが、オン・ザ・エッヂが上場した頃から堀江さんには注目していました。会えば挨拶する程度の関係からで。その後、同社がプロバイダのライブドアを買収しました。で「広告を売って」と、堀江さんが日広に営業に来てくれたこともありました。2003年ぐらいからM&Aを凄い頻度で繰り返していましたねぇ。2001年以降はIT系の起業家が沢山生まれたのですが、堀江さんはまさに筆頭格でした。それから衆院選に立候補したり、近鉄バッファローズを買収したいと宣言したり、面白いな〜と動向をいつもウォッチしていました。そんななかでライブドア事件は、2006年1月に起こりました。

 

 

–––その後、ライブドア事件が起こり、堀江さんは収監されてしまいましたが……。

 

ライブドア事件は、世の中の理不尽さを強く感じました。わかっていましたが、堀江さんの状況を見てそれが証明されてしまったと思ったのです。その後、2年後にリーマンショックが起こりましたが、自分の歴史の中ではライブドア事件の方が何倍も意味があった出来事で、人生のターニングポイントになったと思います。

 

ライブドアの時価が下がっただけではなく、ビットバレー以降のIT系企業の株価が軒並み暴落していきました。ヤフーや楽天のような優良企業でさえ3分の1になりましたし、GMOは10分の1、ひどいところは100分の1になってしまいました。2001〜05年はミセス・ワタナベと呼ばれた主婦やサラリーマン投資家がへそくりで日本の新興小型株に投資をするムーブメントもあったのですが、それが一気に崩れてしまった。

 

僕がシンガポールに移住した理由のなかのひとつに、ライブドア事件のような若い起業家が痛い目にあった日本の嫌なところを見たくないという思いもありました。僕は今も堀江さんは無実だったと思っています。今も昔も自分をしっかりもって、物事を網羅的に考察しているところを尊敬しています。

 

––– 理不尽な気持ちは、シンガポールに移住するきっかけになったのでしょうか

 

シンガポールに来て11年になりますが、理不尽さを感じて日本を窮屈に感じましたし、日本は限界だなという思いも正直ありました。2008年の5月頃にこちらに来ましたが、その3ヶ月後の9月14日にリーマンショックが起こってしまいました。そこで一度、世界経済の底が抜けています。アメリカも中国もヨーロッパも東南アジアもガクンと落ち込んでしまいました。そんな中で東南アジアは一番回復が早くて、翌2009年の3月ぐらいには株価も地価も戻りました。

 

一方、アメリカやヨーロッパが長く不況をひきずってしまいました。底が上げ底になっていて支払い能力がない人に売ってしまったり、貸したらいけない人に貸してしまったり。いわゆるバブルでしたね。実体以上のオーバーローンをしてしまうことによって、サブプライムローンが破綻してアメリカが大爆発してしまいました。日本は深刻な不況に陥り、民主党政権になってしまいました。東南アジアはオーガニックに伸びていたので、これからはこっちだなと感じました。かたや、それまで右肩上がりのインターネットの時代の尻馬に乗って日広も自分も伸びてきたので、この先、日本が左前になるとすれば、僕がやる限り日広にはマイナスになるだろうな、と思ったのです。一方で東南アジア経済がこれから伸びていくのであれば、出ていけば共に成長できるのでは? と気づいたのが日本を出たきっかけになったと思います。

 

2003年にLENSMODEというシンガポールのコンタクトレンズECの会社の起業に参画して、売上は伸びていたものの赤字でした。ライブドアショックの影響も受けた日広を手放そうというタイミングで、LENSMODEの社長から「今年から配当が出せます」と言われて。25歳から41歳まで、日広だけに専念していたので、次にやること用意していませんでした。それで、渡りに船というか、シンガポールに行ってみようかと。

 

いいタイミングでGMOに日広を救済してもらえたことは感謝しています。今考えると、あのタイミングしかなかったと思いますね。

 

一緒に働いていた当時の専務は、いま同社(現社名:GMO NIKKO)の親会社の社長になっています。幹部の多くも残ってくれています。2017年に日本で25周年パーティがあったのですが、創業者として呼んで頂きました。嬉しかったです。

 

後編 http://katou.jp/?eid=661

 

Posted by 加藤順彦ポール | comments(0) trackbacks(0)
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