デジマ界隈をCNET→Agenda noteにて語る今昔。『昔の名前で出』るのは辛い件…でも身錆(前編)

 

25歳で起業して41歳になる頃まで、僕は日広→NIKKOという広告会社の創業社長だった。

 

総勢200名(最盛期)…広告業界40位切るくらいまで売り上げ伸びてたし、2006年1月の週刊ダイヤモンドでは未上場企業全国成長率ランキングで4番目までいったし、ネット広告会社としてはサイバーさん、セプテーニさん、オプトさんと並んで名前の挙がる会社であった。

 

往時はJAAA(現:日本アドバタイザーズ協会)、JIAA(現:日本インタラクティブ広告協会)でも分科会を担当するなど、業界活動でも論客的な位置でリーダーシップを担わせて貰っていた。

 

2006年末、そんな僕に対して、デジタルマーケティングについての連載コラムの依頼がCNETからあった。オプト海老根智仁さん(社長兼CEO:当時)と2人での毎週リレー連載だという。たいへんそうではあるけれど、意気にも感じ応諾。

 

降りてきたお題は『ネットがもたらす広告業の新潮流』。うってつけやんか、と思いつつ筆をとり始めた。そして07年2月から連載が始まった。

 

広告ビジネスは有史以来の『幸せでフェアな関係』へ 2007/2/07 

「インターネットという隕石」により広告枠支配の旧体制が自由化–Yahoo!の登場 2007/3/12 

3 グーグルが創造した画期的な新広告システムと市場 2007/3/26 

 

 

隔週の相棒:海老ちゃんのコラムもなかなか面白かったこともあり、程なく連載はYahoo!Japanにも転載されるようになり、PVは飛躍的に伸びてった。

広告主からNIKKOへのお問い合わせも週イチくらいであったから、アナウンス効果も大きかったように思う。

 

4 第三の突然変異YouTube–枠にはまらない新アイデア 2007/4/9  

5 クロスメディアとは、マスメディア販売のロジック? 2007/4/23 

6 メディア別の広告費分類を超えて–メディアフラットというスタンス 2007/5/14  

 

 

 

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この頃の僕は、資金繰りに追われていた。

 

06年1月のライブドアショックに端を発するネットエコノミー全体の縮小は止めどがなかった。上場していたお取引先の株価の下落が続き、四半期単位で15%程度の売上減が一年以上続いていた。一年一度の社員旅行、四半期単位の〆め会も停止せざるを得ない状況に追い込まれていた。

 

再建に集中するため、10月に虎の子とも言える子会社モビィリードを手放していた。連載を始めた頃はなんとか業績回復しなきゃ、と苦しみもがいていたが、、打ち手は次々と裏目に出ていた。

 

ある意味で万策が尽きたのが07年5月上旬。夏の賞与がほとんど出せない。1か月分の給与を出すことで『希望退職』を募り、メンバーを最低でも20人は削減するしかない。

 

当たり前だが、会社にとって宝とも言える人材が数多く離れていったのだが、苦しい思い出過ぎて、あの頃の詳細がほとんど思い出せない。 

 

いっぽうで世の中に対して、大きな懸念があった。

僕にはどうしてもライブドアショックが解せなかったのだ。ネットベンチャーを社会悪のように袋叩きにしているメディアと世間が理不尽で…とてもモヤモヤしていた。このあともっと良くないことが起こる気がしてならなかったのだ。

 

責任をとると決めたのは6月に入って直ぐだった。僕は単独・単資での再建を諦めたことを役員に告げた。

 

大手企業の傘下に入れば、もしこの不安が的中してもなんとかなる。もう二度と希望退職は募りたくない。これ以上、戦力が落ちたら、NIKKOがNIKKOでなくなってしまうだろう。

 

 

(後編に続く)   ※ 写真は2007年、僕と勤続5周年の相川さん。(ほんと苦しかった頃でほとんど写真が残ってない)