公文事業開発部→ゼロ・コーポレーションとUFOの想い出。

2023年12月14日

 

1992年9月30日に発売されたUFOの『Jazzin’』(ゼロ・コーポレーション)は 僕の生涯ベストアルバムの一枚です。いま聴きながらこのブログを書いてます。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%B0-UNITED-FUTURE-ORGANIZATION/dp/B000064V9X

 

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株式会社リョーマがライオンズマンション新大阪第三から、新大阪末広センタービルに事務所を移したのは1988年4月でした。

秋学期が始まったころ、月刊誌 日経ベンチャーから、僕宛に連絡があり、同誌にて『学生起業家』特集があるので紹介させてほしい、とお申し出を頂きました。

 

当時も、自社発行のサークル情報誌OMO LOUGUEや、関西ローカルの新聞やニュース番組で顔出しなどはしていたものの、 毎月愛読していた日経ベンチャーから直接取材の打診があったのは、21歳の僕にはたいへん光栄なことであり、二つ返事でそのままいろいろと電話口でこたえ、後日、まだ真新しいリョーマのオフィスまで取材・撮影に来てもらったときは天にも昇らんばかりの昂奮ぶりでした。

だから年末の…実際の本誌記事を観たときの、僕やリョーマに関する記事の面積の小ささには落胆したものでした。

 

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発売から一週間もしないうちに、直接会社にいた僕宛に、けたたましい勢いの御指名電話がかかってきました。要するに記事を観て興味があるから逢いたい、という趣旨で。

 

すぐにお会いしたその方は あの有名な 公文教育研究会 事業開発部に在籍する 橋本徹さん。

なんとリョーマのあった新大阪末広センタービルから徒歩で5分と掛からないところに、立派な自社ビルが建っていました。

 

橋本徹さんは事業開発部の課長さんで、エンタテインメント領域での新規事業を模索しているという・・・

ロン毛で細身、そしてHR/HM(ハードロック&ヘヴィメタル)が大好きな、大阪弁丸出しのお兄ちゃんでした。

 

やり取りをさせてもらって、面白そうで、盛り上がり、すぐさま意気投合したので、

僕はリョーマの仕事として、業務委託/月20万円でスタッフとして参画することになりました。

 

僕は、橋本さんと、(僕と同じように)橋本さんがひとりひとり見つけてきた社外のブレーンの皆さんと共にあらゆるエンタテインメント領域の商売について、検討し、議論しました。関西一円の複合型レンタルビデオ店を一緒に視察に行きました。パッケージソフトのトレードショーにも行きました。北九州に開業したスペースワールドにも出向きました。実にエキサイティングな日々を過ごしました。

(その間に、橋本さんには、その後の僕の一生涯の習慣となる サウナでの整え方を仕込んでいただいたのです。ニュージャパンやルビア…よくご一緒に行きました。)

 

そしてCDとビデオのレンタルを核事業にした複合店舗『アミュージアム』の運営を目指すことに決まりました。  いつだったか、僕のリョーマとしての業務委託も終了しました。

 

ところがどういうわけか、界隈の輪郭を憶えてないのですけど、まもなく、そのアイデアは泡と消えました。

橋本さんは、いつの間にか東京でレコード会社(公文100%子会社の) ゼロ・コーポレーション を立ち上げることになっていました。

 

 

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その後、また業務委託をリョーマとして請ける格好で、 僕は東京のダイヤル・キュー・ネットワークに出向することになりました。90年9月、関西学院大学に通っているテイを残したままに、身体は上目黒に引っ越したのです。

 

91年6月、僕は経営破綻したダイヤル・キュー・ネットワークの受け皿となった徳間インテリジェンスネットワークに転籍となりました。笑

そしてまた思い出したように、広尾に移ってレコードレーベルと化していたゼロ・コーポレーションへと、ちょくちょくと橋本さんの顔を観に通うようになったのです。

 

92年9月、日広をなんとなくぼんやりと創めた頃、東京のクラブシーンにハマっていた僕にとって、橋本さんが、ゼロが、切ったアルバム『Jazzin’』はあまりにもクールで、イケまくっていました。ていうか最高でした!。

 

で、ゼロは UFO、COSA NOSTRA、ニシアザブ2000等による幾つかの名盤を発売したのちに、、振り切れたように本来の橋本さんの在るべき道であるHR/HM専門レーベル『MVP』へシフトし、90年代を華麗に駆け抜けていったわけです。

 

◇ ゼロコーポレーション Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

ゼロの路線が変わって以降のUFOは2枚目以降のレーベルを移し、シブヤ系中核たる躍進を(僕個人もフォローを)続けました。写真は、僕個人所蔵のアルバムの一部です。

さて、僕がなぜ四半世紀も前のことをいま書いてるのかというと、1つありまして。

現在の橋本さん夫妻が烈しくも美しく営むスーパー洋食店『東京美食伝説Papi Popi』が、4月26日からスペシャルな仕出し御膳を始めたからです。究極のオムライス&カレーです。但馬牛です。超旨いです。

ウルトラ絶賛ご推奨です。東京23区内配達可能です。騙されたと思って、いや騙されてください。

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余談としての追記:(2020/8/15)

僕と弟妹はくもん式やってたんですよ。小学校2年から。でも、僕は単調な計算作業に飽きちゃって1年ももたなかったんですよね。そのまま僕は数学とは縁が切れたw。いっぽうで弟妹は続きました。とりわけ弟1は中学まで続けて…数Ⅱまで到達してました。結果、弟妹3名はみな大学は理系に進みました。くもん式が基礎となったのは間違いないと思っています。

そんな僕が橋本徹さんとの出会いを機に、公文教育研究会の新規事業を検討する機会を頂き、同社の事業ノウハウについて22歳から1年超、徹底的に学ばせていただきました。この経験は人生に大きく影響しました。同社のビジネスとしての芯は、とにかく徹底したフォーマット化、マニュアル化、マテリアル化。ここがもう徹底的に他の教育産業と違ったわけです。

同社の教室拠点は2020年現在、世界8000以上。まさに日本を代表するグローバル進出での成功事例だと思います。創業来のくもん式のスピリッツが全くぶれないままに全世界に普及しているのは誇らしいことです。