森輝幸さん、GMOメディア上場承認おめでとう!

2020年5月14日

9月14日、GMOメディアに上場承認が出ました。

実にめでたい。

森輝幸さん、ほんとうにおめでとう。

メディアレップドットコムが、インターキューの子会社となってから・・・15年、長い闘いだったと思います。

いよいよ上場企業としてのスタートが切れるわけです。

これから存分に大暴れしていただきたい、と祈念します。

**********

大学2回生の夏(1897年8月)、僕は1週間ほど、真田さんと西山さんからお休みを貰いました。

そして楽しみにしていた「パーティツアー」の添乗員として鳥取県は三朝温泉いきのバスに乗り込んだのです。

パーティツアーに限らず、当時の学生ツアーというやつは、ツアーパンフレットを数多く女子大生に配った無償配布スタッフが、ツアーの先に添乗員として随行できる、という実におおらかで適当なシステムで成り立っていました。

ある程度配らないと、どこにも行かせて貰えません。かたや、たくさん配ったり、配るスタッフを連れてきたり、ツアー自体に行くお客さんを直接連れてきたりする、とよりいい場所に送り込まれる仕組みでした。関西の学生ツアーにとって、そのヒエラルキーの頂点は沖縄本島や石垣島、与論島でした。

僕が三朝温泉のツアーに添乗として任命されたのは、まぁその程度の配布冊数だったということだと思います。
あの頃は既にマイライセンスの運転免許合宿パンフ配り、夜のミナミ巡回が立て込んでしまい、前年の夏のように大量にツアーパンフを配りにいけなかったので、ほぼ学生ツアースタッフとしてはほぼ引退ムードのなか、息抜き半分の、三朝温泉行きのバスでした。

そこで、同じパーティツアーの添乗員として、乗り込んできた同僚の(?)ツアースタッフが森輝幸くんでした。

しかし20歳の僕から見て、森くんはずいぶんと幼くみえました。

「はじめまして。えー加藤順彦です。三朝の添乗、お互いによろしくな。関西学院大学の2回生やねん。」

「よろしくおねがいします。森輝幸です。16歳です。」

「え!!(!! なんで、高校生がここにおるねん。)」

僕は、元気溌剌な森くんに俄然興味がわいて、三朝温泉に着くまでの3時間ほどの間、バスに乗せたお客さんそっちのけで、彼の話を聞きました。

・彼がまだ高校一年生であること。
・高校は進学校ではなく、たぶん就職することになるということ。

僕はかたや、
・僕が大学に入って、見聞を広げているうちに知り合った真田さん西山さんの存在。や
・その二人が大学生でありながら起業した運転免許合宿の斡旋事業に参加して、いま全力でやっていること。
・まだワンシーズン終わったばかりではあるが、たいへんな手応えとともに、6月に坂本龍馬に因んだ、株式会社リョーマを設立したこと。
ことなどを話しつつ、森くんに対し、

・ 学生ツアーのスタッフなんぞ止めて、勉強して、大学に進学すべき、、、
・ 再来年、大学に入ったら、すぐにリョーマのスタッフになってほしい、、、
・ 僕らは日本一の学生集団、学生企業を目指している、、、

など 熱く語ってしまってました。

・・・・・まぁ、あの頃は会う人、会う人、みんなに運転免許合宿を勧め、森くんのように勢いのあるイケてそうな若者には誰かれリョーマで無給で働くことを勧めていたわけですが。 汗

***************

そんなことを語ったことなど、すっかり忘れ去っていた二年後の秋(1989年)、突然リョーマの住所に僕宛で、森くんから手紙が届きました。

封書をあけて、中味を読むまで、その人が誰であったのかも思い出せませんでした。

その手紙には
・ 大学進学を目指していること
・ 大学に入学したら、すぐにリョーマに参加したいこと、

の・・・決意が火傷しそうなほど熱く記されていました。

正直、びっくりしました。

あの2年前のたった一度、ツアーバスでの3時間で、森くんは人生の方向蛇を僕の言ったことを鵜呑みにして取り組んでいる!。

ありがたい、と思うと同時に、あちゃーどないしょ・・・・と思う自分がそこにいました。苦笑。

1990年4月、森輝幸は関西大学に現役合格し、そのままリョーマにやってきました。

ただ、その頃の僕らは見事にマルチな自己啓発セミナー(ライフスペース)の大ブームで、、、念願かなってリョーマに参加していきなり、僕にそこに送り込まれたいへんだった(www)と思います。

森くんは、リョーマのなかで、OMOLOUGUE発行などのマーケティング事業ではなく、運転免許合宿事業(マイライセンス)を選び、その中で、ダイバーライセンスを新規事業で開発・担当するなどの異彩・存在感を放ち大活躍しました。

***************

そんな森くんも大学を卒業。氏は新卒での就職先に、日鉱共石を選びました。

で、僕はといえば同社での配属先の新潟まで、彼を追っていった挙句に退職を勧奨し、上京を仕向けたり、

その後東京にてパチンコ店の出玉情報サービスで起業していた彼に、部下への事業譲渡を促し→日広の子会社として1999年9月に設立したメディアレップドットコムの代表職に引き受けてもらったり、、

まぁ・・・要するに二度三度と、森くんに人生の変節を仕向けてきたのです。

https://paul.katou.jp/?eid=202

(このメディアレップドットコムは、そもそもはインターキューの熊谷社長から依頼されたまぐクリック社の短期上場を実現するために、加藤が用意した「メディアレップ」という名の営業強化策でした。

2000年9月、まぐクリックは見事ナスダック・ジャパンに上場を果たしました。設立から僅か一年の史上最短上場です。(この記録は今も破られていません。)

そして森くん率いるメディアレップドットコム社の売上比率は、上場直前の四半期のまぐクリック社における60%を超えていました。

そう、他のメディアレップ(=cci、DAC)を足しても売上総額の4割を切っていたのです。 (これはちょっと出来過ぎ、なほどでした。)

翌10月、日広はインターキューにメディアレップ・ドットコムを株式交換で売却しました。

森くんはそのままインターキューに移り、メディアレップ・ドットコムとまぐクリックの合併を主導した後に、インターキューが参画した事業会社I Web Technology Japanに2001年9月、取締役として籍を移しました。

2002年、代表取締役社長に就任、Ucat Comunicationsに社名変更して以降は

2004年3月に壁紙ドットコム吸収し、GMOモバイル&デスクトップに社名変更、
2006年5月のFreeMLなど旧GMOメディア&ソリューションズの各メディア吸収、
2009年4月のteacup communication吸収、
などGMOインターネットグループ内におけるネットメディアサービスの統廃合や運営の受け皿として規模や幅を拡げていき、現在のGMOメディアに至っています。

2000年9月にまぐクリック(現 GMOアドパートナーズ)が市場最短で上場を果たし、その勢いのままに翌月メディアレップドットコムとともにインターキューグループに移った森輝幸さん。

当初、できるだけ早期にGMOインターネットグループのメディア事業会社としての成功、IPOを目論んでいた、のではないか、と客観的に思うのですが、
あまりにも早いトレンド変遷の波に揉まれ、またグループ内でのメディア・運営会社の統廃合の母体・主体として何度となくIPOのビークルとしての仕切りなおしがあったことは想像に難くなく・・・
ここに至るまでの15年、様々な辛苦困難があっただろうと感じます。

ほんとうに、ここ上場承認まで良くやった、と感じ入っております。

ただ、ただ、先ずはモリが鐘を撞いたあとあたりで乾杯、したいな、と。